イジワル社長は溺愛旦那様!?
「はいはい。退散しますよ……」
舌打ちをした桜庭の声が遠くなる。
桜庭麻尋がいなくなる。
あれほど彼の存在に怯えたのに、こんなにあっけなく――。
とっさに夕妃は、湊の腕の中で、言わずにはいられなかった。
「おっ……お元気でっ……元気でいてくださいっ……」
「――まったくどこまで……」
ため息をついた湊に、後頭部をポンポンと叩かれたあと、くしゃっと髪を撫でられた。
桜庭には職場の同僚相手のように“また明日”とは言えない。笑えない。
そもそも、湊の腕の中で発した夕妃の声はくぐもっていたから、桜庭に届いたかはわからない。
それでも無言で、静かにドアを閉めて出て行く桜庭の気配は、ほんの少しだけ優しさを含んでいるような気がした。
(もしかしたら私の願望かもしれないけれど……そう思いたいな……)
夕妃は目を閉じる。
桜庭のもとから逃げて、今日まで、長いようで短い、あっという間の時間だった。
桜庭がこれからどんなふうに人生を歩むのか、夕妃には想像もつかないが、やはり、幸せになってもらいたいし、元気でいてほしい。
(ああー……終わったんだ……)
極度の緊張状態にあったせいだろう。
ピンと張った糸が緩み、ふうっと、意識が飛びそうになる。そのまま、全身から力が抜けて、ずるずるとその場に座り込んでしまった。