【完】八月は、きみのかくしごと


 凛子になにかあったんじゃ……。

 胃の底が浮いたような不安に駆られた。

 
 早乙女 凛子は、影森のなかでもお金持ちの部類に入る家系だ。

 お父さんが東京の証券会社に勤めているのだと。

 凛子の名前だって綺麗で、それに似合った顔立ちをしている。大きな目の周りを取り囲む長くて濃い睫毛とか、控えめに笑う薄い唇。

 黒くてサラサラな髪は真っ直ぐに胸の下まで伸びていて魅力を放っている。

 鬼丸の黒くてズルズル伸びた髪とは違う。  

 一言で言えば美人なのだ。名前負けなんてこれっぽっちもしていない。凛子はそれをひけらかしたりもしない。 

 わたしも何度髪を伸ばそうと思ったか。

 その都度母さんに短い方が楽でしょう、と言われ思い留まった。
  
 楽ではあったけど魅力的ではなかった。


 
 わたしが凛子と友達になったきっかけは小学三年生のとき。

 影森の町民会館で行われるピアノの発表会を見にきてくれないかと声をかけられたことだった。

 なんでわたしなのだろうと思ったけれど、

 『あの、前に私のピアノを褒めてくれて、とても嬉しかった……もし、時間があったらで構わないの……』

 もじもじとした様子で凛子は言った。

 凛子は喋るのが遅い。自信がないみたいに喋る。

 のろまー、とよく男子にからかわれていた。

 けど、ピアノを弾いているときだけは、別人だった。

 凛子の指がゆったりと鍵盤に沈む。

 気持ちを乗せて弾くのだと音楽の先生が言っていたことがあるけど、まさにそんな感じだと思った。

 
 音楽会の伴奏を担当した凛子のピアノは本当に上手だった。

 先生も目を大きくしていたしみんなも驚いていた。

 音楽のことはよくわからないけど、誰かがピアノを弾く姿を初めて見たわたしは感動に包まれた。


 もう一度聴いてみたいとすら思った。


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