湯けむり恋奇譚
女将さんは由香の背中を押して奥へと誘い、浴場へと連れ出し、あれよあれよという間に由香は湯の中に浸かっていた。
温泉独特の、硫黄の匂いがする。
獅子の口から流れ出るお湯が、広い空間に心地よい水音をたてていた。
「ふうー…」
熱めのお湯の中に素っ裸の体を放り出して、天井を仰いだ。
温泉なんて久しぶりだ。
歩き疲れた体にじんわりと染みて心地よい。
ぼんやりしながらお湯に浸かる。
高い天井は、湯けむりで霞んでよく見えない。
お湯が流れ出てくる音と、手を動かすたびになる水音だけが響いている。
誰もいない、だだっ広い浴場に由香ひとり。
山奥のうえにシーズンではないとはいえ、さすがにこの客のなさはどうなのだろうか。
ふと視線をやった壁に、描かれた大きく菖蒲の花の絵が描かれているのを見つけた。
途端に嫌なことを思い出して、タオルを握りしめる。
(もう出よう。湯あたりするといけないし……)
じゅうぶん温まったところで、そろりと温泉から出て、脱衣所へと続く引き戸を開ける。
すると、他のお客さんらしき人と遭遇した。
「え」
「ん」
生まれて初めて、桶を投げた。
「きゃあああああ!」
カコーン!
見事に相手の顔面に命中して、倒れた。
由香はゼィゼィ肩で息をしながらその人に近づき、おそるおそる見下ろした。
(なんで!女湯に男がいるのよー!)