春風駘蕩
「今演奏している曲が終わると同時に入ってください。ご希望通り最後列のお席をご用意しましたけど、よかったんですか?」
「はい、ありがとうございます。無理ばかり言ってすみません」
「由梨香さんが無理をおっしゃられたのは初めてですよ。いつも巽のチケットはご自分で用意されるじゃないですか」
「それは、当然ですから」
小声で話す私に、内川さんが苦笑する。
「巽も納得していませんけどね……」
ヴァイオリニストの市川巽。
三十歳を過ぎ、演奏に艶と深みが出てきたと評判の人気演奏家。
演奏内容だけでなく、その整い過ぎた見た目ゆえに女性からの人気も高く、チケットを手に入れるのはなかなか難しい。
後援会の優先申し込みを利用しても、チケットが手に入らないことも多いのだ。
手に入らない時には自宅のお気に入りのソファに体をうずめてCDを聴くことにしている。
「言ってもらえれば、いつでもチケットはご用意しますよ」
会場に続く扉の前で、内川さんが言葉を続ける。
何度そう言われたことだろう。