明け方のマリア
 彼に教えられた通り、鍵を開け、非常階段から屋上に向かう。

 勤めてから一度も上がったことのない場所だった。
 編集長が鍵を持っているのなら、実際には誰も上がれなかったのだろう。

「ゴースト」

 そんな仇名の意味が分かる。でも、歩美の印象はやはり官僚なのだ。

 手にしている鍵にも、やはり熊の縫いぐるみが付いていた。毛色はブラウン。

 縫い目の荒さから、手作りの気がした。よく見ると、小さなタグが付いている。そこに書かれているアルファベットに注目する。

「ツトム・シノハラ……。シノハラ!」

 篠原力(しのはらつとむ)、これこそ彼の名だ。

 階段の途中で足を止めた。熊の顔とタグを何回も確認する。余りに不釣り合いな組み合わせに、「分からないなあ」と歩美は思った。


 ──階段を上りきり、歩美はついに、屋上に足を踏み入れる。

「何、これ」

 夜景だ。街が見える。見渡せる。

 その辺にあった空気を吸う。思いっきり吸う。体の隅々まで行き渡るように吸う。

 ここから見える街の景色は、まるでデートスポットのようだった。街に舞い降りた星空だ。

「きれい、でも……」

 あの光の一粒一粒が命に見える。この街は生きているのだ。間違いなく息をしている。──鼓動が聞こえる。

 呼吸をすることで、不安やわだかまりのようなものが消えて行く。もう、歩美を閉じ込めるものは何も無い。

「よし」

 歩美は口を結ぶ。

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