マザー症候群
波斗が大慌てで道瑠から離れた。
咳払いで目を開けてみると、驚くなかれ母親の美波がいた。
「ああ、お袋。来てたのか」
波斗が罰悪そうに美波に呟いた。
「はい、これ」
美波がバッグの中から取り出したティシュを波斗に手渡した。苦虫を噛み潰したような顔付きで。
「何?これ。ああ・・・」
波斗が美波の意図を悟り慌ててティシュを受け取った。急いでティシュで唇を拭う。
ティシュには、赤い口紅がどばっと付いた。
波斗が何度も何度も唇の周りをティシュで拭いていると。
「なあ、紹介してん」
波斗のTシャツの袖を道瑠が小さく引っ張った。
「ああ、そうだった。お袋、こちら・・・」
波斗が道瑠を美波に紹介しようとすると。
「忙しいから。これで・・・」
美波が波斗の言葉を無視して、会社に戻る素振を。
「ああ、お義母さま。私、榎本道瑠と申し・・・」
道瑠が出来るだけ上品な言葉で自己紹介をし、頭をぺこんと下げた。
無視。それも、相手の存在を完全に無視。
これが美波の反撃の仕方。
美波がタクシー乗り場に向かってつかつかと歩き始めた。
「お袋、スーツケースを持って帰ってくれないか。頼むよ」
後ろから波斗の声が追い掛けて来る。
「甘えたらあかん。今から仕事なんや。自分で持って帰り」
普段は話さない関西弁が、美波の口から勢い良く飛び出した。怒りの感情が頂点に達した時、自然に出てくる美波の癖だ。
美波がそれを悟られないように、後姿のままあばよのポーズを。
(絶対に渡さへんから)
(絶対やで)
美波が心の中で捨て台詞を呟いた。
(絶対やからな)
(絶対やで)
固い固い鉄の誓い。
美波が背筋を伸ばして毅然と歩き去った。振り返る?そんな事は決してなかった。