祓魔師陛下と銀髪紫眼の娘―甘く飼い慣らされる日々の先に―
「アスラメルク」

 リラが小さく呟く。その声に部屋の中にいた者たちの注目が一気に集まる。そして、激しく抵抗していた青年の動きが一瞬だけ止まったのをヴィルヘルムは見逃さなかった。

「なるほど。それが、お前の名前か」

「待て。ここは随分と居心地がいい。この男は賭博を不正に行い私財を肥やしている」

「だから、どうした? 自ら出て行くか、出で行かされるのか、好きな方を選ばせてやろう」

 ヴィルヘルムの冷たい瞳が揺れる。そこに譲歩させる隙はないと見たのか、怯みながらも男は饒舌になる。

「この男に憑りついたのは三週間前。食べようとしていたパンに入り込んだのさ。おかげで、あと三年はここにいるつもりだ」

「自ら出て行くつもりはない、というわけか。ならしょうがない」

 ヴィルヘルムは一瞬だけ目を瞑り、再び開かれた目は冷厳さを伴って、目の前の男を見据えた。

「立ち去れ、哀れなる者。名はアスラメルク。我は汝の名をもって縛り、厳命する」

 さらに、再び聞きなれない言葉で詠唱を始める。先ほどよりもその声に込められた力は強く、淀みがない。

 男は再び目を剥いて苦痛に満ちた声を上げる。体が傷つくことなんて厭わないような激しい抵抗が痛々しいくらいだ。その形相は彼本来のものではない。

 そしてヴィルヘルムが先ほどの小瓶に入っていた水で右手の指先を濡らし、降りかけるようにして男の上で十字を切ると、男は顔を歪め、断末魔のような叫び声を上げた。

 その声は人間のものとも思えないもので、背筋に不快なものを這わせる。思わず耳を塞いでしまったリラだが、次にベッドの上に視線を向けると、そこには死んだような顔で気を失っている青年の姿があった。

 顔色が悪いのは違わないが、先ほどとはまったくの別人だ。まさに憑き物でも落ちたかのような。
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