明日、僕と結婚しよう。
ちひろの指が、ボールペンに触れる。
爪の先がかつんと小さな音を立てた。
美しいペンの持ち方に、よく知る彼女の母の丁寧な教え方を思い出す。
ちひろ、鉛筆はこうやって持つんだよ。
はじめは難しいかもしれないけど、崩しちゃだめだよ。
慣れたら今の形が1番いいの。
苦しいことも、いつか正しかったんだと、間違っていなかったんだと気づく。
そういうものだよ────。
そうやってちひろの母親は、自分がちひろに向けた言葉を噛み締めて、多くのことを耐え忍んでいた。
毎日、毎日笑っていた。
ちひろに愛を捧げて、抱き締めて、大切にしていた。
だから彼女がちひろのために選んだ明日は、間違ってはいない。
それでも、僕たちはこうして少しだけ。
ほんのひと時だけでも、わがままを言って、幻想を叶えたいと思う。
……思ってしまう。
だけど。
「ちひろ?」
震える手。
婚姻届に触れないペン先。
ちひろは、ボールペンをテーブルの上に投げ出した。
「どうしたの?」
「っ……」
僕の問いに、細く息を吸いこむ。
のどの奥が閉まって、ちひろはまるで酸素を取りこめない。
広げられていた掌がきゅうとこぶしを作り、爪を立てた。