明日、僕と結婚しよう。
「書けないよ」
ぽつり、言葉が落ちる。
目に見えないはずなのに、まるで涙のようだ。
白い、黒い、婚姻届をにじませる。
「書けるわけない!」
「ちひろ、」
「だってこんな、こんなうそばっかり!
婚姻届なんて書いても結婚はできないし、私たちはもう隣にはいられない……っ」
きっ、とにらみつけるように、ちひろは僕を見上げる。
まばたきもせずに、ただそこには眉を下げる僕が映る。
「うん、でもねちひろ、聞いて、」
「君は、」
僕のなだめる言葉をさえぎって、ちひろは子どもみたいに言葉を投げつける。
考えるより先に、無遠慮に、幼いその行為が愛おしくてさみしい。
互いに1度だって言葉にしようとしなかった。
知らないふりをして、誤魔化して、ただ昔を懐かしんで。
だけど、本当はずっと確かにふたりの間に立ちふさがっていた。
「君は、いなくなるじゃない!」
それはやるせない、どうしようもない、現実。
僕たちが育った、この街を出るちひろ。
もうここには戻らないちひろ。
両親は離婚し、父親が出張中に荷物をまとめてちひろの母親は彼女を連れて田舎に戻る。
────父親のふるう暴力から逃れるために。
だけどこの街を離れるのは、僕も同じ。
僕は、いなくなる。