黒騎士は敵国のワケあり王女を奪いたい
フィリーは泣き腫らした目でギルバートを見上げた。
むずかる子どものように首を振る。
「そんなことできない」
ギルバートの氷の目がいたずらっぽく光った。
骨張った手でフィリーの頬を包み、まぶたの端に残った涙を拭う。
「できるさ。きみは女王にだってなれる」
馬車が速度を落とし、キール伯爵邸のアプローチに止まった。
ギルバートがフィリーのほつれた髪を耳にかけ、左手を取る。
「そうだな、手始めにダンスを教えようか。王女ならワルツくらいは踊れないと」
フィリーが制止する間もなく、軽やかにステップを下りていく。
月がやわらかい光を溢す、静かな夜だった。
夜霧の中の伯爵邸には煌々と明かりが灯され、ふたりの帰る場所を照らしている。
ギルバートに手を引かれながら、フィリーは慌てて抵抗した。
「待って! 私、本当にダンスはできないの」
ギルバートは全然聞いていない。
出迎えの従者に外套を渡し、玄関ポーチの階段を上る。
エントランスホールでは家令のフランツが待ち構えていた。
「おかえりなさいませ。閣下、フィリー様」
「フランツ、ヴァイオリンを持ってこい。一番上等のものだ」
ギルバートはフィリーの手を握ったまま廊下を進み、東の棟にある舞踏室のドアを開けた。
ライトグレーの壁に囲まれ、上品なシルバーの装飾を施した中庭の見える舞踏室は、十年間一度も人を招いたことがないにも関わらず、床の隅まで完璧に磨き上げられている。