黒騎士は敵国のワケあり王女を奪いたい
月の見えない朔の日の夜だった。
日が沈み、水の都には星が降る。
ふたりは手をつないで屋敷の裏手にある船着場に向かった。
フィリーがギルバートの腕に掴まりながら、用意されていた伯爵家の小舟へ飛び乗る。
ギルバートは従僕からオールを受け取り、ゆっくりと夜のルハルドへ繰り出した。
「どこへ行くの?」
フィリーが目をきらめかせて囁く。
ギルバートは深刻そうな顔で答えた。
「朔の真下かな」
この月のない夜が永遠に終わらないように。
顔を寄せ合い、声を潜めてこっそり笑うふたりを、濃い霧が包み隠してくれる。
川辺に立ち並ぶ邸宅の灯りも遠く、夢の向こう側に浮かぶ幻に似ていた。
フィリーにはたった今、頬を刺す冷たい夜風、舟底にあたる水の音、それとギルバートの笑い方だけが現実だった。
小舟はひっそりと水路を進み、やがて北端の外城壁へと行き当たる。
たとえ深夜でも、見張りをしている衛兵の目を避けてこの壁を越えることはできない。
ギルバートがオールから手を離し、フィリーを腕の中に引き入れた。
フィリーはギルバートの胸に頭を預け、暗い夜空を見上げる。
「ここが朔の真下?」
ギルバートが喉の奥で笑うのが、背中越しに心地よく伝わってきた。
フィリーの腰に腕をまわし、マントの中にぎゅっと引き寄せる。
「気に入らないか?」
フィリーは少し考えてから満足そうなため息を吐いた。
「好きよ」
雲が淡い星の光を遮り、ふたりを闇夜に閉じ込める。