時空(とき)を越えて君に逢いにゆく~家具付き日記付きの寮~
第二話《文化部最強のアスリート》
大学に着いたのは二限の始まる五分前だった。ソングライティングの教室まで走り、なんとか遅刻寸前に滑り込んだ。
先輩に勧められ選んだ授業である。
――ソングライティング。
すなわち作曲や作詞をする事である。将来はプロの奏者か音楽の教師。そんなふうに考えていたけれど、ソングライターになるのも悪くない。
自分で言うのも烏滸《おこ》がましいけれど、サックスの腕は全国レベルである。そして歌も歌える。カラオケの精密採点で97点を下回った事など一度もない。
だからといって作曲の才能があるとは限らない。自分の可能性を求めるべく、僕はこの授業を選んだのだ。
そして今日の授業は客員教授である先生の講義。テレビにもよく出ているプロのソングライターでありプロの歌手。多くの楽曲をメジャーなシンガーに提供している先生の講義である。
何せ教え方が上手い。どんどん授業に引き込まれていく。そして話が面白い。一旦授業の本題から脱線すると、コンサートのMCのように僕たちを笑わせてくれる。
僕は授業に集中した。しかし机から消しゴムを落としてしまう。そんな些細なきっかけで夢の中の少女を思い出してしまった。今日も逢えるのだろうか。
消しゴムを拾おうともしない僕の顔を、隣の席の女の子が覗き込んできた。
「ヒロ、どうしたの?」
僕を呼ぶ声にふと我に返った。
「え? なんだ、京香か。隣に座ってたんだ」
「はあ? あなたねえ、こんなに綺麗な女性が隣に座ってるのに気づかないってどういう事?」
京香は少し大きな声でそう言った。しかし、タイミング良く先生が冗談を言った直後だった為、学生たちの笑い声で彼女の言葉は掻き消されていた。
「自分で言うかな」
「うるさい。はい、消しゴム」
同じ高校出身で吹奏楽部。ユーフォニアム担当の彼女は「おっきなホールでオーケストラの指揮をしたい」そう言って僕と同じ音大へ進んだのだ。
誰にも真似できない程柔らかな彼女のユーフォニアムの音色。僕は彼女の音が好きだった。
高校の卒業式が終わった後、僕は彼女に訊ねた。
「指揮一本でいくのか?」
彼女は数秒間俯いてから顔を上げた。
「まあ、一本って訳でもないけどやっぱり指揮したい。だってさあ……」
「だって何?」
「ユーフォって重いじゃん。目立たないしさ」
「え? そんな理由?」
僕たちの吹奏楽部はマーチングの大会にも出ていた。マーチングの時、彼女はユーフォニアムを吹かない。僕たちマーチングバンドの先頭で白くて長い棒――メジャーバトン――を振っていた。ドラムメジャーだったのだ。
すらりと伸びた長い足は観る者たちを魅了した。背の高い事にコンプレックスでも持っているのだろうか。誰もが羨む容姿であるけれど、本人は頑として『169cm』と言い張っている。
妹の結菜も背は高い方である。けれど166cmの結菜と3cm差だとは到底思えない。
――絶対170cm以上はある。
「そう。それが理由」
「そうなんだ。あっ、今だから言うけどさ。俺……好きだよ」
「え?」
「え?」
「ヒロ、いきなり何言ってんの」
何故か京香の顔が赤くなったのを覚えている。
「何って、京香の音。俺……凄いと思う。大好きだった」
「は?」
「は?」
「あ……ああ、音の事……ね。ありがと」
僕は卒業証書の入った円柱形の筒を持ち「じゃあ大学でも宜しくな」そう言って彼女に背を向けた。
「あの……さあ」
彼女らしくない弱々しい声が僕を引き止めた。
「何?」
「制服の第二ボタン、誰にもあげてないんだね。私……貰ってあげようか?」
「なんで? コートのボタンでもなくしたの?」
「は?」
「え?」
彼女は僕に背を向け帰っていった。
後日この事を家族に話した。
母曰く「あんた、鈍感ねー」
父曰く「青春てええもんやな」
妹曰く「今時第二ボタンて……。昭和じゃあるまいし」
「あっ、そうだ。消しゴム落としたんだった。サンキュ」
すると僕の真後ろから地面を這うよに低音が響いてきた。
「お前、最近なんだかおかしいぞ。恋でもしたのか?」
振り替えるとそこには諒太《りょうた》のごつい顔があった。幼なじみで親友の諒太である。
音楽センスは抜群で、小さな頃僕と同じボイストレーニングの教室に通っていた。誰もが羨む程の低音の歌声は聴く者全ての心を鷲掴みにした。
そんな諒太が中学で選んだのはバリトンサックスだった。小中高大と同じ学校で過ごした。いわゆる腐れ縁である。
均整のとれた筋肉質な体。背は僕と同じ185cm。友達は彼をこう呼んだ。
――文化部最強のアスリート。
体育祭の部活対抗リレーでは、文化部は二十メートル、体の重い柔道部と相撲部は十メートルのハンデを貰うのが当校の伝統となっていた。それでも毎年陸上部が優勝していたようだ。まあ当たり前の結果である。
もちろん運動音痴の僕は応援係。諒太の活躍で吹奏楽部初の決勝進出を決めたのだ。その決勝、野球部、サッカー部、陸上部、そして我らが吹奏楽部。この四チームが戦う事になった。
文化部が決勝に残るとハンデは三十メートルとなる。
第一走者がスタートを切る。しかし第二走者であっさっり陸上部に抜かれてしまう。更に第三走者でサッカー部と野球部に抜かれてしまった。
――万事休す。
と、誰もが思ったけれど、諒太がサッカー部と野球部のアンカーをあっさり抜き返した。流石に陸上部にはかなわなかったけれど、我らが吹奏楽部は初の準優勝を飾ったのだ。
勉強はできる。音楽の才能もある。運動神経も抜群。背も高い。僕の幼なじみは全てを兼ね備えて……いなかった。やはり神様は公平だった。
諒太は……諒太の顔は……まさしくゴリラ。
ざまあ見ろ。と笑いたいところではあるけれど、奴は優しい。男にも女にももてるのだ。誰もが奴を愛する。もちろん僕もその内の一人である。
材木店の長男である為、彼の両親はお店を継がせたいという思いの反面、類い稀なる運動能力と音楽センスを活かして欲しいという思いもあったようだ。結果、本人の希望で音楽を極める為に音大へ進む事になった。
午前の授業も終わり、僕たち三人は学生食堂に集まった。
僕は二人の顔を順場に見て告白した。
「俺さあ、最近おかしいんだよね」
「うん。知ってる」
諒太があっさりと答える。
「そうじゃなくて、ほんとにおかしいんだってば」
「だから知ってるって。お前、おかしいもん」
どう説明すればいいんだろう。いや、どう説明しても「お前、変だよ。付いていってやっから病院行こう」そう言われるのが関の山だろう。
先輩に勧められ選んだ授業である。
――ソングライティング。
すなわち作曲や作詞をする事である。将来はプロの奏者か音楽の教師。そんなふうに考えていたけれど、ソングライターになるのも悪くない。
自分で言うのも烏滸《おこ》がましいけれど、サックスの腕は全国レベルである。そして歌も歌える。カラオケの精密採点で97点を下回った事など一度もない。
だからといって作曲の才能があるとは限らない。自分の可能性を求めるべく、僕はこの授業を選んだのだ。
そして今日の授業は客員教授である先生の講義。テレビにもよく出ているプロのソングライターでありプロの歌手。多くの楽曲をメジャーなシンガーに提供している先生の講義である。
何せ教え方が上手い。どんどん授業に引き込まれていく。そして話が面白い。一旦授業の本題から脱線すると、コンサートのMCのように僕たちを笑わせてくれる。
僕は授業に集中した。しかし机から消しゴムを落としてしまう。そんな些細なきっかけで夢の中の少女を思い出してしまった。今日も逢えるのだろうか。
消しゴムを拾おうともしない僕の顔を、隣の席の女の子が覗き込んできた。
「ヒロ、どうしたの?」
僕を呼ぶ声にふと我に返った。
「え? なんだ、京香か。隣に座ってたんだ」
「はあ? あなたねえ、こんなに綺麗な女性が隣に座ってるのに気づかないってどういう事?」
京香は少し大きな声でそう言った。しかし、タイミング良く先生が冗談を言った直後だった為、学生たちの笑い声で彼女の言葉は掻き消されていた。
「自分で言うかな」
「うるさい。はい、消しゴム」
同じ高校出身で吹奏楽部。ユーフォニアム担当の彼女は「おっきなホールでオーケストラの指揮をしたい」そう言って僕と同じ音大へ進んだのだ。
誰にも真似できない程柔らかな彼女のユーフォニアムの音色。僕は彼女の音が好きだった。
高校の卒業式が終わった後、僕は彼女に訊ねた。
「指揮一本でいくのか?」
彼女は数秒間俯いてから顔を上げた。
「まあ、一本って訳でもないけどやっぱり指揮したい。だってさあ……」
「だって何?」
「ユーフォって重いじゃん。目立たないしさ」
「え? そんな理由?」
僕たちの吹奏楽部はマーチングの大会にも出ていた。マーチングの時、彼女はユーフォニアムを吹かない。僕たちマーチングバンドの先頭で白くて長い棒――メジャーバトン――を振っていた。ドラムメジャーだったのだ。
すらりと伸びた長い足は観る者たちを魅了した。背の高い事にコンプレックスでも持っているのだろうか。誰もが羨む容姿であるけれど、本人は頑として『169cm』と言い張っている。
妹の結菜も背は高い方である。けれど166cmの結菜と3cm差だとは到底思えない。
――絶対170cm以上はある。
「そう。それが理由」
「そうなんだ。あっ、今だから言うけどさ。俺……好きだよ」
「え?」
「え?」
「ヒロ、いきなり何言ってんの」
何故か京香の顔が赤くなったのを覚えている。
「何って、京香の音。俺……凄いと思う。大好きだった」
「は?」
「は?」
「あ……ああ、音の事……ね。ありがと」
僕は卒業証書の入った円柱形の筒を持ち「じゃあ大学でも宜しくな」そう言って彼女に背を向けた。
「あの……さあ」
彼女らしくない弱々しい声が僕を引き止めた。
「何?」
「制服の第二ボタン、誰にもあげてないんだね。私……貰ってあげようか?」
「なんで? コートのボタンでもなくしたの?」
「は?」
「え?」
彼女は僕に背を向け帰っていった。
後日この事を家族に話した。
母曰く「あんた、鈍感ねー」
父曰く「青春てええもんやな」
妹曰く「今時第二ボタンて……。昭和じゃあるまいし」
「あっ、そうだ。消しゴム落としたんだった。サンキュ」
すると僕の真後ろから地面を這うよに低音が響いてきた。
「お前、最近なんだかおかしいぞ。恋でもしたのか?」
振り替えるとそこには諒太《りょうた》のごつい顔があった。幼なじみで親友の諒太である。
音楽センスは抜群で、小さな頃僕と同じボイストレーニングの教室に通っていた。誰もが羨む程の低音の歌声は聴く者全ての心を鷲掴みにした。
そんな諒太が中学で選んだのはバリトンサックスだった。小中高大と同じ学校で過ごした。いわゆる腐れ縁である。
均整のとれた筋肉質な体。背は僕と同じ185cm。友達は彼をこう呼んだ。
――文化部最強のアスリート。
体育祭の部活対抗リレーでは、文化部は二十メートル、体の重い柔道部と相撲部は十メートルのハンデを貰うのが当校の伝統となっていた。それでも毎年陸上部が優勝していたようだ。まあ当たり前の結果である。
もちろん運動音痴の僕は応援係。諒太の活躍で吹奏楽部初の決勝進出を決めたのだ。その決勝、野球部、サッカー部、陸上部、そして我らが吹奏楽部。この四チームが戦う事になった。
文化部が決勝に残るとハンデは三十メートルとなる。
第一走者がスタートを切る。しかし第二走者であっさっり陸上部に抜かれてしまう。更に第三走者でサッカー部と野球部に抜かれてしまった。
――万事休す。
と、誰もが思ったけれど、諒太がサッカー部と野球部のアンカーをあっさり抜き返した。流石に陸上部にはかなわなかったけれど、我らが吹奏楽部は初の準優勝を飾ったのだ。
勉強はできる。音楽の才能もある。運動神経も抜群。背も高い。僕の幼なじみは全てを兼ね備えて……いなかった。やはり神様は公平だった。
諒太は……諒太の顔は……まさしくゴリラ。
ざまあ見ろ。と笑いたいところではあるけれど、奴は優しい。男にも女にももてるのだ。誰もが奴を愛する。もちろん僕もその内の一人である。
材木店の長男である為、彼の両親はお店を継がせたいという思いの反面、類い稀なる運動能力と音楽センスを活かして欲しいという思いもあったようだ。結果、本人の希望で音楽を極める為に音大へ進む事になった。
午前の授業も終わり、僕たち三人は学生食堂に集まった。
僕は二人の顔を順場に見て告白した。
「俺さあ、最近おかしいんだよね」
「うん。知ってる」
諒太があっさりと答える。
「そうじゃなくて、ほんとにおかしいんだってば」
「だから知ってるって。お前、おかしいもん」
どう説明すればいいんだろう。いや、どう説明しても「お前、変だよ。付いていってやっから病院行こう」そう言われるのが関の山だろう。