along

ただ一つの気がかりは名人戦。
持ち時間それぞれ9時間の二日制だから、直もさすがにノータイムで指すようなことはせず、じっと盤を見て一手一手決意するように指す。

パチン。

しゅるん、と薄青の絹を揺らして直が駒を動かす。
少しだけズレた駒をピンと伸ばした中指の先でトントンと直す。
何度聞いてもドキドキする音だ。
直の人生の音は、この子にも届いているのかな。
ううううううーーーーーーっ!!
いや、届いてないかも。
タイミング悪すぎる……!
ぼんやりした頭じゃいつも以上に解説も入ってこない。

やってきた陣痛の山を越えると、私はよろよろした手で職場に電話を掛けた。

「あ、おじちゃーーん! お願いがあるんだけど」

『お、鈴本! お腹の子は順調か?』

「今産むところ」

『は? 今? このタイミングで?』

「だからおじちゃんに電話してるんだよー。私の携帯、うちの母親に預けるから、折々名人戦の経過伝えて! 細かいことなんてわからないから、『勝ってる』とか『負けてる』とかでいいから。あーーーーーーーーーーーっ!!…………とにかく……お願い……っ」

私の必死の声に恐れをなしたおじちゃんは、一手ごとに『まだわからない』というメッセージを送り続けてくれている。
たまに『お昼ご飯はたぬきうどん』『おやつはデコポンシャーベット』という情報が混ざるけれど、今は本当にどうでもいい。

ある意味、よかったのかもしれないと思う。
名人獲得なんて人生の間違いなく一番重要なシーンを2日間も耐える自信ない。
これまでの4局、毎回胃痛に悩まされて一度真剣にお医者様に相談したほどだ。

「ストレスは溜めずゆったり過ごしてください」

と笑顔で言われて、

「無理だよ!」

とついタメ口で返してしまった。
妊娠中の飲酒・喫煙・名人戦はご遠慮ください。
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