along
「呼んでますよ」
金縛りを解くみたいにその視線を振り切って、手のひらをおばさまに向けると、彼もようやく彼女を視界に入れた。
彼が立ち止まったことで安心したのか、おばさまはノロノロとスピードを緩め、駅伝ランナーの襷のごとくICカードを彼に差し出した。
それを見て素早く状況を理解した彼は、慌ててペコペコ謝罪する。
「あ! 落としてましたか? すみません! ちょっと考えごとしていて。本当にすみません!」
恐縮し切った様子で、彼は自分のものであるはずのカードを恭しく受け取った。
息を切らしているおばさまはまだ声が出せずに、いいのいいのという意味を込めて、手をひらひらさせる。
そして紙袋をドサッと置いて、取り出したハンカチで汗を拭いていた。
よかった、よかった。
私は完全な部外者なのだけど、立ち去るタイミングを伺いつつ一部始終を見守っていた。
おばさまの回復を待って、じゃあ私はこれでと口を開きかけたとき、同じようにタイミングを待っていたらしい彼が、
「お礼にお茶くらいご馳走させてください」
とおばさまを誘った。
「いいのよ~! そんな大したことしてないんだから」
ブンブン手を振って遠慮するおばさまに、笑顔ながら存外強く迫る。
「この暑い中だいぶ走らせてしまったようですし、遠慮なさらないでください」
「でもさすがに申し訳ないから」
「お時間ありませんか?」
「時間は大丈夫だけど……」
またしてもタイミングを逃して佇んでいた私に、おばさまは助けを求めるような視線を送ってくる。
「せっかくだしご馳走になったらいいんじゃないですか? 彼もそれで気が済むでしょうし」
自分だったら拒否するところだけど、他人事なので適当に答えた。
でも親切をして汗だくになったのだから、その汗を拭う時間くらいお世話になってもいいと思う。
「そう、かしら? じゃあ、少しだけ」
「あまり遠くにお連れするのも悪いので、そこのコーヒーショップで構いませんか?」
「私はどこでも」
「では、行きましょうか」
そういうやり取りの末、私が出てきたばかりのコーヒーショップへと足を向ける。
と、クルリと彼が振り返った。
「あなたも」
帰るつもりで大きく一歩踏み出していたから、非常口のマークみたいな格好で止まる羽目になった。
「いや、私は本当に関係ないから」
「呼び止めてくれたでしょう?」
「呼び止めただけでしょう?」
「行きましょう」
「さすがにそこまで図々しくなれないです」
今度は私と彼の間で似たような押し問答が始まってしまった。
土曜日の夕方、それなりに混み合う駅構内では、少し邪魔な状況だ。
「せっかくだからご一緒しませんか?」
おばさまが心細げに私を誘ってきた。
知らない男性といきなりふたりというのは不安なのだろう。
私が勧めてしまった手前、多少の責任を感じる。
「……わかりました。お邪魔します」
彼の方はニッコリと笑って、誘導するように道を空けた。
そうして私は出てきたばかりのドアを、今度は見知らぬ人たちとくぐることになったのだ。