along
なんとか振り切る言葉を言おうと息を吸ったのとほぼ同時に、私と武の間にゴトンッとコーヒーのカップが置かれた。
深みのある黒い水面が大きく波打って、テーブルにこぼれるほどの勢いだった。

「へえ、“一番”ってことは、真織以外に“二番”や“三番”がいるってことでしょう?」

直が武を見据えて立っていた。
表情も声もいつもの直なのに、見たことないほど強い圧力を発している。
暖房の効いているはずの店内で、ぶわっと鳥肌が立った。
もしかしたら盤に向かう直は、こんな空気を放っているのかもしれない。
まともに対峙したら吹き飛びそう。

「……あんた、誰?」

直より身長や体つきだけなら大きい武でさえ、その圧力にたじろいでいる。
薪割りの斧を振り下ろす要領で、直は更に強めた圧力とともに言葉を落とした。

「真織の恋人です」

「だから、それはただのお試しで━━━━━」

「試した結果、返す予定はありません」

私が持った違和感の正体を、直は明確に示してくれた。
誰かと比べられて、あっちより君の方が好きと言われても、比べられた時点で何かが違ってしまっている。

「俺は真織しか知らない狭い世界で構わない。あなたはどうぞ、広い世界に別の“一番”を探してください」

幼い頃にたくさんの選択肢を捨てた人の声だと思った。
捨てたつもりはないのかもしれない。
ただ一つを選んだ人。
それしか知らなかった人。

『将棋しか知らない狭い世界で構わない』

私にはそう聞こえていた。

「行こう、真織」

武がすがるような目を向けてきたけれど、直を追うのに必死で、挨拶もせずに席を立った。

「あ、」

歩き出した直は、大股で武の元へ戻る。

「それ全然口付けてないので、よかったらどうぞ。ごゆっくり」

呆然とする武に直は笑顔で汚れたカップを押しつけ、今度こそ店を出た。




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