along
* * *


昼休み。
近所を散歩する感覚でやってきた直を、おじちゃんは下にも置かないもてなしで迎えた。

「有坂先生、いらしてくださってありがとうございます! それから、昇級昇段おめでとうございます!」

指導対局のことを直にお願いしてみたら、「会社に行ってもいいの? 行く行く!」とふたつ返事で了承したのだ。

朝からせっせと片付けた事務所内を、おじちゃんがブルーマウンテンブレンドとショートケーキ(直の分だけ)をトレイに乗せて、うやうやしく運ぶ。
普段、コーヒーは粉で生えてくるものだ、と言わんばかりなので、おじちゃんがコーヒードリップを知っていて驚いた。

「ありがとうございまーす。いただきまーす」

その希少価値も知らず、直は遠慮なくコーヒーに口をつけた。
そして私の前に広げられている将棋盤を覗き込むと、耳元でそっと囁く。

「もう投了?」

直接耳に吹き込まれた体温にゾクッとして身体が跳ねると、イスがストンと落ちた。

「ひゃっ!」

内容には色気の爪の垢も入っていないのに、このザマ……。

「え! このイス壊れてるの?」

「そう。前から。だから驚かせないで」

イスを直して、そろりと座り直す。

「もうダメ。投了する」

対局と呼ぶにもはばかられる、おじちゃんと私の残した残骸を見下ろし、直は「確かにひどいな」と苦笑いを浮かべた。

「でも投了の必要はないよ。将棋は飛車取られても負けじゃないから」

私はふてくされ顔でショートケーキのイチゴを奪い、乱暴に咀嚼する。

「だって難しくてわからないんだもん。駒の動かし方はわかってても、そこから先どう指したらいいのか見当もつかない」

「中盤の難しさは永遠のテーマだからね」

直は私を壊れたイスから追い払い、そうっと座ってからパチン、と銀を進めた。

「投了はしません」

私相手だと退屈そうにしていたおじちゃんも、にわかに緊張した面持ちで姿勢を正す。

「よろしくお願いします!」

気合いのあらわれなのか、パシッ、パシッ、と力強く指すおじちゃんに対して、直はただ駒を置いただけのようなやさしい手つきだった。
肩から指先まで、すうっと伸びたその姿勢は舞のようにさえ見える。

寝起きが悪く「遅刻した場合は~、その遅れた時間×3が~、自分の持ち時間から引かれて~」なんて、枕にしがみついてブツブツ言ってたあの人と、見た目には大差ないのに、頭は回転しているらしい。
おじちゃんが悩んで悩んで指しても、直はショートケーキを食べる合間にちょこんと指すだけだった。
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