along
「……負けました」
それでも三十分と経たず、おじちゃんの頭は盤に沈んだ。
「ありがとうございました」
「あそこから逆転されるなんて……。いっそ気持ちいいな」
ぬるいブルーマウンテンブレンドを飲んで、直はニコニコ笑いながら局面を戻す。
「この局面ですが、面白い戦法があるんです。プロではもうあまり使われないんですけど━━━━━」
おじちゃんの目は少年のようにキラキラしていて、同時に直もとても楽しそうだった。
「━━━━━で、ここで桂馬が跳ねる」
「え? ここで?」
「はい。その方が楽しいでしょう? プロだとなかなか思うようにやらせてもらえませんが、アマチュアなら思い切って指した方がいいと思います」
頬杖をついてふたりを見ていた社長が、あくびを噛み殺しながら尋ねた。
「そういえば、有坂さんって名人なんだっけ?」
言われた方の直は弱り切って髪の毛をグシャグシャにする。
「残念ながら違います。やっと挑戦を争える立場になれた程度です」
今となっては“名人”がどんな高みであるかわかるつもりだけど、もし出会った当初にプロ棋士だと言われたら、私も「将棋名人?」って軽い気持ちで聞いたかもしれない。
挑戦を争うA級に入るだけでもすごいことなのに。
「あれ? 名人挑戦って何? 直ってまだB1じゃないの?」
サラッと聞き流していたけど、おじちゃんもさっき“昇級昇段”って言ってなかったっけ?
「この前の順位戦に勝って昇級が決まったんだ」
「そんなこと言ってなかったよね?」
「『勝った』って言ったけど」
あの日の夜、直は夜十時過ぎにうちにやってきた。
順位戦は深夜0時を過ぎることもざらにあると聞いていたのに、
「短手数で終わった」
と、一応用意しておいた豚汁とおにぎりをもりもり食べた。
おにぎりを一つ食べ終えたタイミングで、それでどうだったの? と聞くと、勝ったよ、とだけ答えたのは覚えている。
まあ、いいか。
普通の会社員だって、仕事の具体的な内容まで話すとは限らないし、とそれ以上深くは聞かなかったのだ。