along
▲7手 above


近年の夏は、東北と言えど南国と変わらないほどに気温が上がる。
今朝の天気予報でも、東北全域で三十五度を超えると言っていた。
それを裏付けるような強い日差しが、大きな窓の向こうに広がる日本庭園を、容赦なく照らしている。

その対照をなすように、室内は落ち着いた空間に保たれていた。
そこにいるたくさんの人々は誰一人言葉を発しない。
けれど静寂とは違う。
聞こえるのは衣擦れの音とカメラのシャッター音ばかりだが、それ以上に騒がしいのは、期待と緊張のザワザワとした空気。

その中心に直が座っている。
“濃紺”と片付けてしまうにはもったいないほど上品な色合いの羽織に薄鼠色の袴は、最初にタイトル挑戦したとき、お祝いとして後援会の方々から贈られたものだという。

将棋盤を見る直の顔に、いつもの笑顔はない。
真剣に本業に臨む直は、私の話に爆笑している大好きな彼氏ではなく、見つめることすら躊躇われるほどに鋭く、底無しに静かな目をしている。
画面を通してしまうとわかりにくけれど、きっとあのピリピリした圧力を放っているに違いない。

盤を挟んで反対側には日比野大輔棋聖。
真珠色の着物に薄青の羽織を、さすがの貫禄で着こなしている。
現在二冠のタイトルホルダーであり、棋聖としては三連覇中である。
とは言え緊張はするはずなのに、まさに「泰然自若」といった風情だ。
おじちゃんが言っていた、「強いという印象だけで勝手に相手が自滅する」というのもうなずける。
日比野棋聖を前にすると、直もヒヨッコ感が拭い去れず、ひらりという扇子のひと振りで跳ね返されそうだ。

「それでは時間になりました。日比野先生の先手番でよろしくお願いします」

立会人の声で対局開始が告げられる。

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

対局者ふたりと立会人、副立会人、記録係、観戦記者、地元関係者など、その場にいる全員が深々と頭を下げた。

ひときわ深く頭を下げ、一番最後に顔を上げた直は、そのまま盤面に視線を落とす。
挨拶の余韻が消える頃、日比野棋聖の右手が駒を掴んでビシッと指した。

▲2六歩

それを見て、直は視線を一度手元に落とす。
気息を整えているのか、じっと動かない。その目には何も映っていない。
将棋盤も対局者も、何も。

しゅるりと衣擦れのうつくしい音がしたかどうか。
少し心配になる頃、ようやく顔を上げた直は、あのきれいな右手を駒に伸ばした。

パチン。△8四歩

拍手のようにたくさんのシャッター音が響いていた。




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