along
効きそうにもない古典的なおまじないを思い出していると、

「緊張で息苦しくなってきたら、真織のこと考えるよ」

「……私のこと?」

直はブフッと吹き出すように笑った。

「そう。真織と真織の会社のこと。ニヤけるの隠すためにも、ハンカチと扇子は忘れないようにしないと」

君を想って頑張るよ、と夢見がちな変換をするには、かなり失礼な印象を受けるけど、役に立てるならいいか、と文句は飲み込んだ。

「対局中に笑っちゃったことある?」

「ない。さすがに」

と言いつつ、直は思い出し笑いに震える。

「昔、対戦相手がスーツの中にドクロのベスト着てきたことあって。『ええ! ドクロ!』って思ったけど、顔には出さなかった。でも、対局中、たまーにドクロと目が合ったんだよね」

笑い上戸と言えるほどよく笑う直は、これでも対局中、ほとんど表情が変わらない。
本人の中では感情が動いているらしいけど、これまで四局観てきて、私にはほとんど読み取れなかった。
人生をかけた一戦を前に、

「あ、このブロッコリー、ハート型だ」

などと嬉しそうにしている彼は、本当に何者なのだろう。

断っても“普通”がいいと言って、直は今回も私のマンションまで送ってくれた。
それでも部屋に誘うと「帰れなくなるから」と断られたので、以前仮初めの恋人だったときのように、エントランスでデートは終わり。
名残惜しくて、指を絡めて繋いだ手にさらに強く力を込めと、同じように返してくれた。

直が勝とうが負けようが、私に特段の変化はない。
勝ったら直の名前の後に「棋聖」と付くけれど、それだって世間のほとんどの人は知らないことだ。
でも、それが直にとって少なからぬ意味があるとわかっているから、本人がどんなに“普通”を望んでも、平静ではいられない。

直の手は、特別指が長いわけでもスラリと細いわけでもない。
ただの男の人の手なのに、なぜかつるつるピカピカでとてもきれいだ。
駒ばっかり持ってきた人の手。
私に触れる、これが正解だっていうちょうどいい手。
明後日、この手で直は戦う。

夜なのに下がらない気温でベタベタの、それでも見た目は涼しげなその右手を、暖めるように包む。
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