along
「真織の手は夏なのに冷たくて気持ちいい」
「私は汗でベタベタで気持ち悪いよ」
「湿気多いと駒が張り付いたりするんだよね」
そっと手を持ち上げて、中指の先に軽く口づける。
何の足しにもならない祈りを込めて。
そして見上げた直は、ほんのりと笑った。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「頑張って」とは言わない。
頑張ってるに違いないのだから。
私が言えるのは「行ってらっしゃい」。
勝っても負けても「お帰りなさい」。
右手を解放すると、その手で直は私の肩を掴み、唇を合わせた。
ゆっくりしっかり一度だけ。
「行ってきます」
あれからずっと、左肩には直の手の感触が残っている。
翌日は朝からずっと吐きそうで、仕事もいつもより倍以上時間がかかった。
その間に二度イスがストンと落ち、三度躓いて転びかけている。
「真織さん、今日はタクシーで帰った方がいいですよ。この調子だと絶対ホームに落ちます」
ぶちまけてしまったファイルの中身を拾ってくれながら、頼子ちゃんが真剣な声で言う。
「そうする。今は自分でも自分が信用できない」
「有坂さんは、今頃何してるんでしょうね」
頼子ちゃんは窓の向こうに見える、くっきりと濃い青空に視線をやった。
棋聖戦の情報は公式ブログに写真付きでアップされていて、直たちは午後に対局場である旅館に着いたらしい。
バスを降りた直の上には、ここと同じような夏空が写っている。
十五時過ぎに行われた検分の写真は、日比野棋聖と直が駒を並べているものだった。
そうして当日と同じ環境にして、光の当たり具合や座布団の座り心地、空調など不都合がないか確認するのだ。
神経質な人だと、滝の音が気になると言って、人工の滝を止めてもらうこともあったらしい。
将棋をするだけなのだから、気にすることなんてないかと思っていたけど、いろいろ神経を使う棋士は多い。
持ち時間がなくなって秒読みに入った時、腕が引っかかると嫌だから細身のスーツは着ない、という人もいる。
メガネ率が高いのも、秒読みの時コンタクトがズレた、なんてことになったら目も当てられないからだとか。
四局指して何も言ったことのない直に、検分で何か確認してるの? と聞いてみたら、
「……升目と駒の文字が見えればいいかな」
なんて言ってたっけ。
「それって、逆に見えないなんてことがあるの?」
「たまに見えにくいやつもある。あと照明が反射して盤や駒が光っちゃったり」