along


中継は対局開始の三十分前、八時半に始まった。
私は睡眠不足と緊張で、昨日以上に胃がムカムカして食欲もない。
お湯で溶かすタイプの顆粒スープを舐めるように飲みながら、パソコンの前でひたすら時間が過ぎるのを待っていた。

対局者のいない対局室はなごやかな雰囲気が漂っている。
記録係の奨励会員が駒を磨いている横で、立会人や関係者が談笑していて、緊張感は感じられない。
中継カメラがぐるっと回転して、対局室から見える庭園が映し出されると、見頃を迎えたピンクと白のサルスベリの上に、すでに厳しい日差しが降り注いでいた。

日比野棋聖と直の経歴や、棋聖戦の仕組みなどが紹介された後、画面が対局室に戻ると、今度は一転して全員正座で言葉も交わさずにただ対局者を待っている。
そして八時四十六分。
画面右手奥の襖から、直が入ってきた。
対局室内の空気が、一段と重くひきしまる。
直も軽く会釈はするものの、言葉も発せず、誰とも視線を合わせない。
さっと下座に座り、時計やお茶、脇息の位置を確認したあとは、身じろぎひとつせずに、じっと棋聖を待っていた。

直は今、たったひとり、将棋しかない世界にいる。
そこに入っていけるのはひとりだけ。

その唯一の人物、日比野棋聖は直よりずっと慣れた様子で入室し、ゆったりと上座に座った。
直は深く頭を下げて彼を迎える。

着座してすぐに一礼し、棋聖が駒箱を開ける。
将棋では上位のものが駒の出し入れをする決まりになっていて、座る位置とこの作業が、立場を示す重要な要素になっているらしい。
駒を並べる直の姿に迷いも不安も緊張もないように思える。
同時に日比野棋聖は余裕すら感じる手つきだった。

『振り駒を行います』

将棋にはほとんど運の要素がない。
だからこそ勝利の栄誉も、敗北の責任も、すべて棋士ひとりのものだ。
その中で唯一運と言えるのが、この振り駒である。

記録係が白い布を広げてから、日比野棋聖の歩を五枚取る。

『日比野棋聖の振り歩先です』

カシャカシャと早い動きで手の中の駒を混ぜ、布の上に投げ出した。
歩……四枚。

『歩が四枚で、日比野棋聖の先手番となりました』

私は階下の人の迷惑も顧みず、ドサッとカーペットの上に倒れ伏した。

あんなに祈ったのに、神に見放された……。

ため息ばかりつく私と違い、直に変化はない。
実はがっかりしているのか、本当に平気なのか、棋士の有坂行直は私には理解できない存在だ。
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