along
対局開始の九時まではあと二分。
『この時間、対局者は何を考えているものなんですか?』
聞き手(解説の補佐)の女流棋士が解説者である棋士に尋ねた。
『先後が決まりましたから、今はどういう作戦でいくか考えていると思いますよ』
直の視線はしずかに盤面に注がれている。
日比野棋聖もまた、同じ盤面を見ている。
戦いは、すでに始まっているのかもしれなかった。
『それでは時間になりました。日比野先生の先手番でよろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
立会人の声で対局が始まり、まもなく棋聖がビシッと指した。
▲2六歩
撮影する時間を考慮して、駒に指先を置いたまま一、二秒止めてから手を離す。
続いて直もゆっくりと歩を進めた。
△8四歩
同じようにたくさんのシャッター音を待ってから手を離した。
撮影が一段落すると、取材陣も関係者もすべて退室して、残されたのは対局者と観戦記者と記録係。
端の方に座っていた記録係が、タブレットを持って正面に座り直すと、いよいよ空気が濃密になった。
『有坂八段も居飛車でしたね』
『有坂さん、元々後手番ではあまり振り飛車は採用してないんですけど、最近は先手番でも居飛車の割合が増えてますから、日比野棋聖も予想していたと思いますよ』
インターネットの中継番組では、女流棋士とプロ棋士が解説してくれている。
将棋の対局を最初からまともに観るのは初めてだけど(いつも平日に行われるので)、とても丁寧なのだろうと感じる。
「ダメだ……。眠い」
が、それでも私にはわからない。
解説は現状を説明しつつ、今はこんな手を狙っていて、今後はこういう展開になるんじゃないかな、という棋士の思考を教えてくれるものだから、そもそもそのレベルにない私には暗号にしか聞こえないのだ。
『先手は▲4六歩 ▲4七銀 ▲3六歩。後手もほぼ同型なので、いずれ▲5六銀 △5四銀と上がって、角換わり腰掛け銀に進みそうですね』
などと言われても、昨夜の睡眠不足も手伝って、気づくと瞼が降りている。
私にわかったことと言えば十時半に出されたおやつに、直がフルーツ盛り合わせを選んだ理由くらいのものだ。
最初のタイトル挑戦のとき、チョコレートのシミをつけてしまったことを未だに悔いているから、汚れそうなおやつは頼まないのだそう。
日比野棋聖は杏のロールケーキとホットレモンティーを注文していて、ふたりとも膝に手拭いを拡げて食べている。