along
「だけど有坂先生、序盤ほとんどノータイムで指してた。だいぶ準備して来てたんだと思う」
曖昧に引きつった笑顔を浮かべたのは、おじちゃんの言葉のせいではなく、唇の裏にストレスによる口内炎が二つもできているせいだ。
笑うと痛い。
直は最近、ずっと引きこもって研究に没頭していた。
たまに連絡取ると「一週間、部屋から出てない」なんて返事が返ってきたりして、私の方も気安く連絡できなかった。
具体的に何をしているのかはわからないけど、凄まじい努力をしてきたことは感じているのだ。
「ノータイムだとすごいの?」
「よっぽど研究してるか、決断がいいか。どっちにしても、迷いがないってことだと思う。棋聖戦はタイトル戦としては持ち時間が短いから、自分の時間の使い方と相手の時間の使わせ方、これも戦いの一部だよ」
対局再開の十分前に、直は盤の前に戻ってきた。
盤面をじっと見つめる直の近くまで、東北で今年一番と騒がれている日差しが入り込んでいる。
室内は冷房が効いているだろうけど、やっぱり暑いのだろう。
直は羽織を脱いで袴姿になっていた。
光にも薄まらない髪と揺れない瞳。
横から見る袴姿は、羽織を着ていたときよりも身体のラインがはっきりして、スッと伸ばした背筋が際立つ。
日比野棋聖が戻ってきて十三時に対局は再開された。
まもなくビシッと日比野棋聖が指す。
彼は温厚そうな見た目に似合わず、ビシビシと強い指し方をする。
やはり人によって音は違うようだ。
その手を見た直は数分考えて、パチンと駒を進めた。
「おじちゃん、どうなったの?」
日比野棋聖がここで長考に入った。
天井を見上げたり逆に俯いたり、扇子で仰いだりしながら一心に考え込んでいる。
何があったのか気になるのに、解説を聞いていても「わからない」「悩ましい」ばかり。
「局面が難解なんだよ。形勢も互角のままだ」
直の方はというと、一応盤面は見ているものの、ちょっと眠そうな気がする。
首がカックリ落ちたりしないか、別意味でハラハラする。
本人も危ないと思ったらしく、ポットで支給されているお茶を湯呑みに注いで飲んだ。
「緊張してるはずなのに、見てるこっちも眠くなりそう」
「持ち時間四時間は短い方だけど、それでもずっと集中し続けるのは無理だし無駄。相手の長考中は少し気を抜くくらいがいいんじゃないかな」
「考えなくていいの?」
「ここまではまだ有坂先生の研究範囲内みたいだから大丈夫。研究から外れてからが勝負だから。体力と時間は残しておかないと」