along
棋聖が歩を打つ。
直が歩で取る。
棋聖が歩を打つ。
直が玉で取る。
棋聖が角で狙う。
直が玉を引く。
ふたりとも手つきが乱れ、逃がした玉は升目の中で傾いているし、指した弾みで周囲の駒を弾いてしまう。

「盤も駒台もぐちゃぐちゃ……」

駒台や盤上の駒をきれいに並べるのは、相手から見やすいようにするためのマナー。
勝負の公正さを保つためのものでもある。
それすらできないほどの激戦だった。

『40秒ー』

ギリギリまで考えることなく、次に棋聖が打った銀は、直の玉から少し離れていた。
ずっと玉を守ってきた直は、その銀を無視して、ぐちゃぐちゃの駒台の上から歩を一枚掴む。
羽織の袖を左手で押さえ、風をまとうようなうつくしい手つきで、その歩を打ち込んだ。
パチン。
その瞬間、空気が変わった。

『この次は桂打ちですね。王手だから逃げて、金打って、逃げて、桂成り……』

さっきまであれこれ検討していた解説者も、ゆったりとした口調になって、今度は直の攻める手順を解説している。
そして、指し手はその通りに進行していった。

「……勝った」

駒台の上の駒をきれいに並べ直している直を見て、しばらく黙ったままのおじちゃんが言った。

「でもまだ終わってないよ?」

「いや、勝った。今はもう形作ってるだけだから」

プロの読みというのは当然だけどアマチュアよりずっと複雑で先が見えている。
プロが「あ、逆転は無理だ」って思って投了を決めても、ある程度わかりやすい投了図を作るために、わざと数手指すことがあるらしいのだ。

「お前の彼氏は……やっぱりすごいな」

『いやー、すごい終盤戦でした』

『見ごたえありましたね!』

おじちゃんが言うように、解説でももう直が勝ったこととして話を進めている。
直の手つきも落ち着いていて、それはまるでゴールに向かっているようなのだ。
じっと盤面を見て、しゅるりと手を伸ばし迷いなく駒を掴む。
パチン。
その音一つ一つが棋聖に刺さって行くようにも感じる。

『30秒ー』

棋聖が成桂を王で取った。
直はその頭にさらに金を打ち込む。

『30秒ー』

棋聖の肩が少し落ちたように思えた。

『40秒ー』

日比野棋聖は、駒台と盤上の駒を中指の先でちょんちょんと整える。

『50秒ー、1、2、3、4、』

次の瞬間、棋聖が前屈みになってため息とともに何か言い、直も深く頭を下げる。
それから日比野先生は腕組みして宙を見上げ、直はふうっと息を吐いて頭をがしがしと掻いた。
< 91 / 123 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop