お人形さん
「......いい」
と静かに言い放った。
「なんでだよ」
「いいったらいい」
「なんで!?」
痛い、篤が私の腕を力強くつかむ。まるでそれは、夢うつつの世界にまどろむ私を起こす現実の使者みたいで、私は困惑した。
「いいと言ったらいいの。篤に、わかる訳ない」
そう、だって篤は幸福な人だから。私の孤独なんて、解せる訳、ない。それに。私には君人さまとの世界があるの。それに土足で突然入ってこないで。ここは二人だけの世界なの。そう思うと、一瞬酩酊したかのような感覚を覚えた。
◆
父と母が揃って突然亡くなったのは、一年とちょっと前のこと。山肌を縫った峠での交通事故だった。現場にブレーキ痕がなかったと言って、私を引き取った叔父伯母は警察に念入りに事情聴取されたと聞いた。ある日の夜中、トイレに立つ私に、リビングから夫婦の会話が聞こえてきた。
「もう何度聞かれたかしらねえ。何か、思い悩んでいた様子がなかったかって」
「きっと我が子のことじゃないの。あんな不愛想で冷たい子がいたら、将来も悲観したくなるわよねえ」
「ほんと、あの子は小さいときからずっと笑わないんだから。いつもこっちを軽蔑するような瞳で見て」
「迷惑極まりないわ。あんな子を残してとっとと死んじゃうなんて」
ああ、早く死にたい。慇懃な叔父夫婦の態度は分かっていたけれど、ここまで思われているとは。頭を鈍器で集中的に殴られているようだった。頭部が緊張で狭められて、今にもへこんでいきそうだ。
そのとき初めて思わされた。ああ、早く死にたい、と。
◆
君人さまに出会ったのはその頃だった。
「これ、買ってきたからね」
と、叔父伯母から相変わらず慇懃な態度で渡されたのは、パソコンだった。それが渡されたのは
「実子とは直接遊ぶから、お前はこれで一人で過ごしてね」
という意味だとは、あの会話を聞いていたから、すぐに解せた。
一人であてがわれた狭い部屋にこもり、パソコンの画面を開く。つまらない動画サイト。そこに現れたのが君人さまだった。彼は眉目秀麗ながら、血塗られた魔族の末で、主人公の肉を食べまいとひたすらに耐えるという設定だと知った。自分の生まれた運命を呪いながら、美しい主人公を仄かに慕う、見目麗しい王子様。私はすぐに夢中になった。自分と彼の運命を重ね合わせたのかもしれないし、見目美しいと思って慕ったかもわからない。
とにかくすぐに惚れこんで、密かな楽しみになった。学校で幸せな人たちの相手をするのも、ほとほと倦んできた頃だった。私はまさに彼のために生きていた。自死しなかったのも、生きていたら彼に会えるかもしれない、そう思っていた故だった。
それが絶望的に不可能だと、知っていながら。
会えるはずがなかった。君人さまは二次元だからこそ、こんなに完璧で美しいのだと、自分でも理解していた。けれど諦めきれなかった。叔父夫婦が実子を優先し、私名義の遺産も使い込まれ、夢だった大学進学も諦めねばならなくなった今、生きる希望は彼だけとなった。
◆
「君人さま、どうしたらあなたと幸せになれますか」
篤の煩わしい忠告を無視し、君人さまに会いに行ったのは、一週間後のことだった。このところ、ストレスからだろうか、物を美味しく感じなくなって、めっきり食も細くなった。そのせいだと思う。最近は少し歩いただけで眩暈を起こすようになり、ますます学校に行かず、登校途中に保健室に駆け込むようにこの人形館に通い詰めた。
君人さまに会うと安心できる。家でも学校でも出来なかった息が出来る。眩暈が突然起こっては酩酊を呼び起こすけれど、大丈夫。君人さまと会っているだけで傷も禍根も癒される。
「あなたと本当に出会うには、私は死ななくてはいけないのですか......?」
そう尋ねると、君人さまはまた瞬きをして、こちらを見据えた。そうして口を開いた。
「何を言っているのだ。もう会っているではないか」
喋った......。私は動悸がして、心臓が宙に浮くような感じを覚えた。嘘......。確かにこの眼前の君人さまが、話しかけてくれた。生きている。君人さまは、生きている......。私は涙を振りこぼして、すぐに床になだれた。
◆
「暁月っ暁月っしっかりしろ!!」
私は気がついたら外のベンチに寝かされていた。空が青い。ああ、なんと現実は疎ましい色合いなのだろう。そう空をぼんやりと疎んだ。私の視界には、君人さまではなく、篤がいて、青ざめた顔でこの体をゆすっていた。
「暁月、起きたな! 大丈夫かっ病院行くか病院!!」
「ん......大丈夫」
「お前、地下室に倒れてたんだよ! 急いでここに運んで、ゆすったら起きたからいいものの! もうあの人形に近づくなって言ったろ! 学校に来ていないから、心配して来てみたらこのざまだっ」
お婆ちゃんじゃ気が付かないだろうし。そう小さくつけ加えたのを、私のゆっくりと回復しつつあった聴力は漏らさなかった。
「いいかっあの人形はかなりやばい人形なんだ! きっとお前の生きる力を、あれが奪っているんだっもう近づくなっ」
「無理......」
だって、あの人が、私を絶望の底から救いだしてくれたあの人が、私を見て、微笑んでくれたのだもの。今生では絶対会えないと思っていたのに、出会ってしまったのだもの。
でも、今は篤の力強い腕をとって、安堵している自分もいる。どうしてなのだろう、本当に私が欲しかったのは、人形の冷たい美しさより、本物の人間の温かさだったというの? 私の眼は涙を浮かべてはこぼしていた。もはや分からない。
私は何を悲しみ、そして安堵しているの?
と静かに言い放った。
「なんでだよ」
「いいったらいい」
「なんで!?」
痛い、篤が私の腕を力強くつかむ。まるでそれは、夢うつつの世界にまどろむ私を起こす現実の使者みたいで、私は困惑した。
「いいと言ったらいいの。篤に、わかる訳ない」
そう、だって篤は幸福な人だから。私の孤独なんて、解せる訳、ない。それに。私には君人さまとの世界があるの。それに土足で突然入ってこないで。ここは二人だけの世界なの。そう思うと、一瞬酩酊したかのような感覚を覚えた。
◆
父と母が揃って突然亡くなったのは、一年とちょっと前のこと。山肌を縫った峠での交通事故だった。現場にブレーキ痕がなかったと言って、私を引き取った叔父伯母は警察に念入りに事情聴取されたと聞いた。ある日の夜中、トイレに立つ私に、リビングから夫婦の会話が聞こえてきた。
「もう何度聞かれたかしらねえ。何か、思い悩んでいた様子がなかったかって」
「きっと我が子のことじゃないの。あんな不愛想で冷たい子がいたら、将来も悲観したくなるわよねえ」
「ほんと、あの子は小さいときからずっと笑わないんだから。いつもこっちを軽蔑するような瞳で見て」
「迷惑極まりないわ。あんな子を残してとっとと死んじゃうなんて」
ああ、早く死にたい。慇懃な叔父夫婦の態度は分かっていたけれど、ここまで思われているとは。頭を鈍器で集中的に殴られているようだった。頭部が緊張で狭められて、今にもへこんでいきそうだ。
そのとき初めて思わされた。ああ、早く死にたい、と。
◆
君人さまに出会ったのはその頃だった。
「これ、買ってきたからね」
と、叔父伯母から相変わらず慇懃な態度で渡されたのは、パソコンだった。それが渡されたのは
「実子とは直接遊ぶから、お前はこれで一人で過ごしてね」
という意味だとは、あの会話を聞いていたから、すぐに解せた。
一人であてがわれた狭い部屋にこもり、パソコンの画面を開く。つまらない動画サイト。そこに現れたのが君人さまだった。彼は眉目秀麗ながら、血塗られた魔族の末で、主人公の肉を食べまいとひたすらに耐えるという設定だと知った。自分の生まれた運命を呪いながら、美しい主人公を仄かに慕う、見目麗しい王子様。私はすぐに夢中になった。自分と彼の運命を重ね合わせたのかもしれないし、見目美しいと思って慕ったかもわからない。
とにかくすぐに惚れこんで、密かな楽しみになった。学校で幸せな人たちの相手をするのも、ほとほと倦んできた頃だった。私はまさに彼のために生きていた。自死しなかったのも、生きていたら彼に会えるかもしれない、そう思っていた故だった。
それが絶望的に不可能だと、知っていながら。
会えるはずがなかった。君人さまは二次元だからこそ、こんなに完璧で美しいのだと、自分でも理解していた。けれど諦めきれなかった。叔父夫婦が実子を優先し、私名義の遺産も使い込まれ、夢だった大学進学も諦めねばならなくなった今、生きる希望は彼だけとなった。
◆
「君人さま、どうしたらあなたと幸せになれますか」
篤の煩わしい忠告を無視し、君人さまに会いに行ったのは、一週間後のことだった。このところ、ストレスからだろうか、物を美味しく感じなくなって、めっきり食も細くなった。そのせいだと思う。最近は少し歩いただけで眩暈を起こすようになり、ますます学校に行かず、登校途中に保健室に駆け込むようにこの人形館に通い詰めた。
君人さまに会うと安心できる。家でも学校でも出来なかった息が出来る。眩暈が突然起こっては酩酊を呼び起こすけれど、大丈夫。君人さまと会っているだけで傷も禍根も癒される。
「あなたと本当に出会うには、私は死ななくてはいけないのですか......?」
そう尋ねると、君人さまはまた瞬きをして、こちらを見据えた。そうして口を開いた。
「何を言っているのだ。もう会っているではないか」
喋った......。私は動悸がして、心臓が宙に浮くような感じを覚えた。嘘......。確かにこの眼前の君人さまが、話しかけてくれた。生きている。君人さまは、生きている......。私は涙を振りこぼして、すぐに床になだれた。
◆
「暁月っ暁月っしっかりしろ!!」
私は気がついたら外のベンチに寝かされていた。空が青い。ああ、なんと現実は疎ましい色合いなのだろう。そう空をぼんやりと疎んだ。私の視界には、君人さまではなく、篤がいて、青ざめた顔でこの体をゆすっていた。
「暁月、起きたな! 大丈夫かっ病院行くか病院!!」
「ん......大丈夫」
「お前、地下室に倒れてたんだよ! 急いでここに運んで、ゆすったら起きたからいいものの! もうあの人形に近づくなって言ったろ! 学校に来ていないから、心配して来てみたらこのざまだっ」
お婆ちゃんじゃ気が付かないだろうし。そう小さくつけ加えたのを、私のゆっくりと回復しつつあった聴力は漏らさなかった。
「いいかっあの人形はかなりやばい人形なんだ! きっとお前の生きる力を、あれが奪っているんだっもう近づくなっ」
「無理......」
だって、あの人が、私を絶望の底から救いだしてくれたあの人が、私を見て、微笑んでくれたのだもの。今生では絶対会えないと思っていたのに、出会ってしまったのだもの。
でも、今は篤の力強い腕をとって、安堵している自分もいる。どうしてなのだろう、本当に私が欲しかったのは、人形の冷たい美しさより、本物の人間の温かさだったというの? 私の眼は涙を浮かべてはこぼしていた。もはや分からない。
私は何を悲しみ、そして安堵しているの?