おはよう、そばにいて
凛子の通う日田高校普通科は、全学年が三百人ほどの、このあたりでは中規模の高校だった。進学率も抜群にいい訳ではないが、悪くはない。運動部が強いという評判で、今朝も比較的早く学校に登校しているのに、もう運動部の掛け声が白い校舎に響いている。教室のドアに手をかける。
「……おはようございます」
なるべく小さな声を出そうとして、妙に変な声でもじょもじょ挨拶する結果になった。幸い教室には、自分と同じく暗いと噂される、前髪のあつい少女、通称前髪しか座っていなかった。彼女には誰も挨拶しないし、誰も挨拶も返さないと噂だから、
「おはようございます」
 が返ってこないだけましだと、凛子は思ってしまい、人間みたにずるい自分が厭になる。
陽の光に焼かれた机の色は檜皮色で、それの一つに座して、朝礼を待つ。前髪が本を読んでいるのが見てとれた。タイトルは、
(呪われた太陽)
 誰の本だろう、と疑問を覚える。面白い本を読むなあ、とも。呪われた太陽。そういえば、昔の伝承でこういうのがあった。
(吸血鬼は陽の光を浴びると滅びる)
 あれは半分嘘で、半分本当だと思う。
もう人間の血がだいぶ濃くなってきた吸血鬼たちは、日の光を浴びて死ぬこともない。確かにふつうの人間に比べて、浴びると軽いめまいを起こすが、それも少し休めば治る。
伝承の日の光。死ぬ時には大概の吸血鬼は、確かにあまねく陽の光の下で死ぬことになる。とは知っていたが――。
ふと、生涯売れなかった作家の台詞を思い出す。
 【死は甘美に化粧で姿を隠して、いまわの際にその顔表し絶望をもたらす】
 そんなことを思っていたら、時計を見やってもう八時半を回っていた。教室に続々とクラスメートが入ってくる。
この時の緊張は計り知れない。だって毎度のように「おはよう」と言いあうだけの友が、凛子にはないのだから。あちらも、彼女に気兼ねして、おはよう、が言えず、クラスメートの大部分が凛子に声をかけない事態になる。乾いた挨拶は凛子を通りすぎていく。
「おはようございます」
 そこで教室のドアを開け、担任の若い男の教師が入ってきた。
「今日もね、春のいいお天気ですね。部活動をやる人はけがに注意し、鍛えていってください」
 と、まあ当たり障りのない会話をした後、担任がこんなことを口にした。
「何度も繰り返しになりますが、私たちのクラスメートである朝倉レイ君が、益子病院に入院中です。今度千羽鶴を折りましょう」
 そこでえーとブーイングが出ないのが、レイ君とやらの人柄を示している。ドクターの言っていたのはこの子のことだろう。岡田の言う【つんけん】していながら、メート受けのする温かみのある性格。一体どんな子なんだろう。凛子は若干興味を示した。
ふと先日のことを思い返した。暁の頃合い、凛子は血をもらいにまだ闇が消え去らないうち、宿直の岡田に血を求めた。岡田は苦笑いしながら、献血パックを差し出してくれた。そのまま病院の屋上より飛び降りて空を滑空する。あの時、カーテンの開く音に首をひねると、珍しく病室のカーテンがあけ放されていて、そこに人間が立っているのが見てとれた。でも、その頃には凛子はもはや羽をそよがせ、光の彼方に消えていた。
まさか、顔は見られていまいが、しかし見つかったら。
 そう考えると、少し身震いが起きる。
「吸血鬼に、なんて生まれてこなきゃよかったわ」
 口の中で誰に話すでもない言葉は、始業のチャイムにかき消された。凛子は教科書をめくりつつも思想を深めた。

 お昼頃、一人でトイレ飯をするのも厭なので、凛子は屋上へ向かおうとした。屋上は似たように独りぼっちの人たちの集いの場で、誰が誰に話しかけるでもなく、その静かな環境をみなの無言で保っている。
 そこへ行こうと凛子が立ち上がると、突然に、
「凛子さん」
 後ろから声をかけてくる者があった。振り返る。そこでは長身の美人、美里がこちらへ手を振っていた。
「お弁当、一人?」
「うん」 
 ぶっきらぼうに凛子が答えると、美里は首をかしげて、よかったら、と話を切り出した。
「よかったら一緒にご飯食べない?」
教室中の机を集めて、女子はクラスに十四名しかいないのに、そのテーブルには十二人もの女子が集まって和気あいあいと昼食を食べている。所謂浮いている、混ざっていないのは、凛子と、前髪だけだ。ふと、凛子が前髪の厚いあの少女の方を見やる。すると、厚い黒髪の隙から、瞳を潤ます彼女の姿を見た。ああ、そうなのか。凛子はひしひしと痛み、を感じた。
(もし私が今ここでグループに入ってしまったら、あの子は正真正銘独りぼっちになってしまう。それを意地悪な男子が騒がない訳がない。
「やあ、ぼっちー」
だとか、
「お前暗いからダメなんだよ」
 などと常に騒ぎ立てている男子が。瞳が潤んでいるのは、恐れていた事態が起きてしまことへの恐怖)。
少し逡巡してから、凛子はごめん、でもいいよ、と言って美里に頭を垂れた。あの根暗さんがその時歓喜に震えたか何を考えたかは、一瞥もしなかったので分からない。
「ダメかな」
 少しいらだったような声音で、美里が言う。それでも、凛子は揺るがなかった。
「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」
凛子がそう言って席を外す折、美里と仲の良いクラスメートが、
「何あれ、感じ悪い」
と言い放ち、美里が
「しっ」
といさめたまでは背中で聞いた。くだらない。だから人間って嫌い。同じ意見しか置かないイエスマンを揃えて、みんなで何か欲心をおこしながら固まっていく。
本当に人間は狡くて、汚い。人間たちがもっと頭がよくなったらいいのに。そして心の浄化がなされていけばいい。
(人々は私を化け物というけど、化け物はどっちかしら)
 そう思えば思うほど、こころの虚無が黒くいびつに膨らんでくるような気がした。
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