おはよう、そばにいて

「と、いう訳なのよ」
 放課後、委員の仕事を終えて凛子はまた益子病院に向かった。最近はストレスが溜まると病院に行っては岡田にぶちまけるのが癖になりつつある。血を貰う以外は人間と関わりたくないのに。話を聞いて欲しいなんて、人間みたいなことを。凛子は自分のこころの弱さをひどく疎んだ。
「へえ、そんなものなのかしらねえ」
 白衣を纏った岡田はくるくる回る回転いすに腰掛けて、紅茶を喫しながら顎を引いた。
「年頃の女の子も大変なのねえ」
「……まあね。気にしてないから、いいけど」
 凛子がそういうと、岡田がまた綺麗な顔で笑った。そうしていると、本当に女が笑っているみたい、と凛子は思った。
 亜麻色の髪を一つに結わえた岡田が、くすと声を漏らす。
「そうなのねえ。ところで、最近体は変わったところ、ない? 眩暈がするとか、具合が悪いとか」
「……そんなのいつも」
「はいはい、じゃあさっそくこれをさしあげましょうね」
 岡田がまたクーラーボックスから献血のパックを取り出した。ごくりと、自分でも唾をのむ音が聞こえて、凛子は己が恥ずかしくなった。
 パックを急いて開けたせいで、少し、血がはねて白の制服のシャツにしみになった。だけど、血を飲むとやはり生きている感じがする。真夏の盛りに全力疾走した後、人間が水を欲しがる心理に似ている。献血パックの中身をひとしきり飲み込んで、少し、口を離した。
「……ありがとう、岡田先生」
「厭だ、お礼なんていいわよ。あなたにしては珍しい」
 くすくすと、また岡田が微笑んで首を振る。と、その時だった。ふいに足音が近づくのが聞こえた。乱暴な音ではないが、躊躇いなくこちらに近づいてくる。どうしよう。まだ飲み切ってないのに。
(あ、鍵……)
 凛子は焦った証拠に、岡田を横目で見やった。岡田は微笑むばかりで席を立とうとしない。
「やだっ岡田先生鍵っ鍵しめたのっ」
 思わず鋭い声を出してしまった時には、もう、ドアが開いていた。
「あっ」
 凛子は眼を見張った。そこにいたのは、顔色の白い、整えられた顔だちの、同い年くらいの少年だった。
「あ、あ……」
 凛子が何も言えず押し黙ってしまうと、少年はこう憎まれ口をきいた。
「なんだ、おかまもやっと女に目覚めたと思ったら、相手は吸血鬼かよ」
 え……。
なぜわかったの。そう凛子が言うと、少年は瞳を細めて答えた。
「お前、献血パック急いで隠したろ。制服に血がはねてるし、口に血がついてる」
「うそっ」
「口の方はうそだよ」
 くく、と少年がほくそ笑むので、凛子は真っ赤になって顔を背けた。
「驚かないの」
 凛子が訊くと、少年はうん、と頷いた。
「だって俺、お前のこと見たことあるもん」
「えっうそっ」
「こないだ朝、空飛んでいったろ? 偶然見てたんだ。制服だったしな、お前」
「えっ」
 凛子はここで眼を尖らせて、少年をじいと見据えた。
「だ、誰かに言ったりしたら……」
「お前も吸血鬼にしてやる、か? 望むところだ」
「ええっ」
 そうまで言われると、凛子としてはもう打つ手がなく、再び言葉を失してしまった。少年は若干顔色が悪いが、それがかえって整えられた目鼻立ちに儚い美しさを添えて、彼は春に降る淡雪のような美少年に見えた。さっきから岡田は黙ったまま口角を上げている。
 少年が再び口を開いた。
「なあ、お前」
「……凛子よ」
「凛子、お前さ」
 いきなり呼び捨てにするなんて。凛子は腹が立っているのに、それを不愛想な表情に醸すことしか出来ない自分が憎らしかった。少年はそれに気づいているのかいないのか、凛子の黒目がちの眼を見て言葉を発す。
「凛子、俺を吸血鬼にしてくれよ」
 「はあ?」
凛子が思い切り厭そうな声を出した。声と同時に、厭そうな表情も思い切り出せたので、相当抵抗を示したように自分では思ったのに、少年はまるで意に介さない。
 それどころかますます弾んだ声で。
「なあ、頼む凛子。俺も吸血鬼になりたい。永遠の命が欲しいんだ。頼む」
「はあああ?」
 ふ、ふふと、先ほどから聞き役に徹していた岡田が声をたてた。若い二人が彼を睨みつける。
「先生……俺は本気だよ」
「私だって本気で厭よ」
ほほほほ。岡田はおかしくてたまらないというように腹をおさえている。
「あなたたちときたら、面白すぎるわ。凛子ちゃん、この子が前話した204号室の子、朝倉レイ君よ。レイ君、この子は同じクラスの凛子ちゃん。お察しの通り、吸血鬼よ。この子が生きるための血を、医者の私が提供しているってわけ」
 内緒よ、とレイにウィンクする岡田は、本当に艶っぽく見えた。本当に二十年経ったら二人の交際を考えてもいいのかも、と凛子が思うほど。
「よせやい、俺はおかまに興味ない」
「あら、じゃあ凛子ちゃんには興味あるのね」
「吸血鬼としてはな」
 レイが肩を撫でさする仕草が大仰で、凛子は思わず笑ってしまった。そこで、不愛想なナースがノックをして、ドアを開いた。
「先生、急患です」
「はい、今行くわね」
 岡田はそう言ってから、二人を交互に見やって、
「はい、あとは若い同士で、仲良くね。喧嘩などしてはダメよ?」
「はあ!?」
 レイも凛子も思わず同じ反応を見せ、岡田にくすくす笑いを提供してしまった。そのまま彼は白衣をはためかせ、部屋を去っていく。
 しばし二人に落ちる沈黙。
 その沈黙は、レイから破られた。
「なあ、お前さ……」
「なに」
 全力でそっけない反応を示す凛子へ、レイが話しかける。
「頼むから俺を吸血鬼に……ん」
 次にはレイがせき込んだ。そのせき込みは激しいほどで、肺が破られるのではないか、と凛子は警戒心も忘れて駆け寄った。さっきまで気に食わぬと思っていたのに。凛子がゆっくりと背中を撫でてやる。
 レイのせき込みは、しばらくあってやんだ。
その時初めて凛子は、彼が骨折で入院したのではないことを悟った。
「なにか、病気なの」
「見りゃあわかるだろ」
「分からないよ」
 凛子のはきとした調子に、一瞬レイは口ごもって、それから
「……ありがとう」
と囁くように言った。
 少し、嘘をついた。本当は具合が悪そうだ、これは怪我で入院したのではない、とは勘づいていた。白い顔色。同学年の男子より、少し痩せた体つき。だけれど凛子はそれを打ち消すように大きな声で否定した。
レイの長いまつ毛がはばたく。綺麗な、茶色の瞳だ、と、凛子はそばによって感じた。
「難病なんだ」
 あのおかまでも治せないらしい。と、レイが告げた。岡田はああ見えて相当に腕の立つ医者だった。その岡田が、手の施しようがない、とした。
〖有限の命だから尊いというのは、嘘ね〗
 ふいに岡田の紡いだ言葉を思い出す。凛子はせき込むのをやめた背にいまだ手をあてて、
「とにかく、病室に戻りましょう。ベッドで横になった方がいいわ。そうしたら話も聞くから」
 と言った。言った後ではっとした。話を聞く、なんて、安受けあいした、とよぎった自分が人間らしいのか。それとも情がない吸血鬼のようなのか。それは自分でも分からなかった。
 二人で廊下を伝い病室に向かう。レイはしっかりした足取り、ではなかった。時々よろめいて、それを凛子が支えた。途中からナースがやってきて、彼をなんとか病室にたどり着かせた。
 個室の病室にはあちこち花が飾られていた。それに美しい花の絵も、いくつかおいてあった。それらに囲まれるようにして、綺麗な女性が彼を待っていた。
身体の線は細くて、整えられた顔だちは彼に似ていた。お母さんかな、と凛子は予想した。
「あら、レイ君、お友達?」
「うん、おふくろ、悪いけど出ていって。ナースさんも」
「はいはい」
 レイのお母さんか。せっかく来てくれたのに、冷たいふるまい……。凛子がそう感じるより先に、レイが何でもないことのように口走る。
「いいんだ。おふくろもナースも、俺の先のことを知っているんだろ」
「え……」
「死ぬんだよ、俺。もうじき」
 あまりの突然の告白に、凛子が言葉を失ってしまう。
死ぬ。目の前で微笑むこの少年は、もうじき死ぬ。体温のなくなるものになる。今背にかざした手に伝わるぬくみ、それが消えてなくなる。溶けてなくなる。
「そういう病気なんだ」
 レイが再び首を振る。まるでまとわる死の影を振り払うかのように。
「ねえ。あんたさ」
 もう、凛子よ、と言う気力も奪われていた。ただただ圧されて、言い返す気もなかった。
「吸血鬼ってこと、ばらされたくなかったら、俺を救ってくれよ」
「え……」
 凛子が絶句する。レイの顔はこころなしか、微笑んでいた。
「俺を吸血鬼にしてくれと言っているんだ」
< 3 / 7 >

この作品をシェア

pagetop