魔王の妻
空はまだ白まない。暗黒のうちに、燭台だけがともる。アナスタシアが血を洗おうと泉へ出ていったとき、客間に逃げ込んだ二人は震え抱きしめあっていた。
「怖い、怖いよマリエ……」
マリエが優しく魔王の髪をなでる。
「大丈夫ですわ。怖いものは全部アナスタシア様がはらってくださったんですもの」
「違う! あの女は、連れてきたのだ……怖い。頭の中で声がするんだ。お前は地上を覇するはずだった魔族の長。以前のように、人間どもを皆殺しにするのだ!! と、強い甘い声で……」
「それは、どういう……」
「はん、ようやっと気が付いたか」
二人が顔をもたげると、アナスタシアがガウンのみを纏って、そちらを睨み据えていた。
「アナスタシア、さま、それは、どういう?」
「これを見るがよい」
アナスタシアが、ガウンを脱ぎ去り、一糸まとわぬ裸形になった。それを見せつけられた二人は絶句した。
アナスタシアの体はちょうど半分に切り裂かれたかのように、乳房と乳房の中間より下腹部まで亀裂が入ったひどい傷を負っていた。
「これは、どう、して……」
震えるマリエの声に、アナスタシアがガウンを纏って答える。
「私は人間界の王より派遣された、魔王討伐の勇者一群の一員だった。この黒き城に、何十人と勇者たちが向かった。だが他の勇者はみな食われて殺され、私だけが魔王の慰みものにされて生かされた。そのあとで隙を見て逃げ出し、妹のいる家にたどり着いたとき、魔王はすでに私のこの後ろ髪をつかんでいた」
アナスタシアが一度、言葉を切る。
「……ひどい戦いだった。私を救おうとした勇者の仲間たちが何人もねじり殺された。私自身も、私を連れ戻そうとする魔王に歯向かい、この傷を負った。しかしそれでも、私は魔王の足の小指を切り落とし、その記憶を喪失させるにはいたったらしい。追い詰められた魔王は谷に落ちていった。――だがそのとき、魔王は家よりさらった私の妹も道連れに落ちていったのだ」
このアナスタシアの信じがたいような発言に、魔王ルシフェールは頭をかかえて苦しんだ。
「わからない! わからないんだ! 過去のことが思い出せないんだ! ただ、気が付いたら何も分からないままマリエと二人、この湖のほとりに流れ着いていて、それで……寂しくとも幸福で」
マリエがたまらず泣き叫ぶ。
「もう、もうおやめになって!! このお優しい方を、もうこれ以上苦しめないで!! どうして、どうしてそのような話をなさるのです!! まるでわたくしたちの幸福を、壊そうとなさるように!!」
「幸福? 壊す?」
これにアナスタシアは声高く笑った。
「何を言うかマリエ。わが妹よ。私の一生を弄び台無しにし、私の命よりも尊んだ妹をさらって、さらには受胎させた、その罪をその男は知るべきであろう」
「アナスタシア、様……!! お姉さま!! ですが、ですが!!」
マリエの悲鳴は、もはやその身を破壊せんとするほどの悲愴を極めた。
「あなた様さえ来なければ、わたくしたちは幸福に暮らせたのです!! なのに今更訪れて、わたくしたちの幸福を破壊せしめたのはなぜです!!」
「……」
「お分かりにならないのならわたくしがお話ししてさしあげますわ! それは嫉妬ですわお姉さま! あなた様が愛した魔王と、妹のわたくしが幸福に生きていることを知って、許し難く思われたのでしょう!? 嫉妬だわ、嫉妬だわ……そんな感情のためにわたくしたちの幸福はめちゃくちゃになってしまいました」
泣き叫ぶマリエを一瞥し、アナスタシアは静かな瞳で告げた。
「――私がそれを知らなくても知っても、いずれ王は魔王を滅ぼす気でいた。もうじき、人間界の兵士たちがここへ攻め入ってくるであろう。そのときどう身を処するか、考えておくのだなわが妹よ」