ハル
突然、前の席の椅子が音を立てながら動いた。
僕は目線を名表からずらし、顔を上げた。
それと同時に
「はじめまして。よろしくね、榎本くん。」
優しい声が僕の鼓膜をすっと通り抜けた。
「よろしく。」
動揺を隠せずそっけない一言を僕は言い捨てた。
なんで名前を知っているんだろう。
名表を見ておいてから声をかけたのか。
ってことには前のやつにも声を…。
僕の脳内で変な思考回路が働きだす。
いつもの悪い癖だ。
何故かあの声を他人に聞かせることに
不満を感じた。
上岡舞子、彼女との出会いは
こんなにも素っ気なく、たった2秒に
おさまりそうなくらいのものだった。

こんな出会いを思い出すたびに僕は涙が出る。
思い出すことさえ恐くなる。
舞子は僕にとって、そんな存在だ。
今でも。

その日、この一言だけで舞子との会話を終えた。
教室にいる間も、式の間も、
廊下に並んでいるときでさえ、
舞子は僕の目の前にいたのに。
少し呼びかければ、その肩にかかるくらいの
黒髪を揺らしながら振り向いてくれただろう。
僕にそんな勇気はなかった。
まるで僕と舞子は別世界にいるようだった。
今なら大声で名を叫んでやれるのに。
声を枯らしてでも名を叫んでやれるのに。
僕はそれすらできなかった。
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