あなたの前でだけ
「それじゃ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」

結婚してから毎朝玄関まで見送りをする。
靴を履いてカバンを持った由鷹が振り返り、挨拶をしたあとドアを開けるまでに一瞬の間がある。

その間に気付かないふりをして笑顔で手を降る。パタンと扉が閉まると同時に。
「はー…」

思わずため息をついて前髪をかきあげた。
今日も期待に応えられなかった自分へのダメ出しだ。

由鷹はきっと、『行ってらっしゃいのキス』を待っている。2年も付き合えばそのくらいのことは読み取れる。

世間の多くの人にとっては何をそんなに悩むのだと思うかもしれない。たかが行ってらっしゃいのキスくらい簡単にすればいいじゃないと。ましてや夫婦であるし、もちろん一緒に寝ていて当然そういった行為もしているわけで。

ただ、私にとって『そういう行為』と『行ってらっしゃいのキス』はまるで別次元のことに思えて仕方ない。

だってそういうのって、フリフリしたエプロン着けた可愛い奥様がするものでしょう?
そんなマンガのような出来事を自分がするなんて恥ずかしくてとても無理。
"可愛い女の子"というフレーズが最も私から遠い位置にあるといっても過言ではない。

やんちゃな兄3人に囲まれて育ち、それを見てこのままではやばいと思った両親が突如私を中高一貫の女子高へと入れたが時すでに遅し。女子高での私のポジションは完全に王子様と呼んで差し支えのないところだった。

結局そのまま男っぽい楽さに慣れてしまった私は体育大学へと進学し、ほとんど女性扱いを受けることも、甘酸っぱい恋愛を体験することもなく育ってしまった。
当然のごとく友達も男友達の方が圧倒的に多い。

そんな私を初めて女性扱いしてくれたのが由鷹だった。
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