冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
「昔、この王宮に常駐医として優秀な医者がおりました」
「その方は今どちらに?」
「王宮を出てから、この劣悪な情勢の中、まだこの国にいるかどうかは……」
「わかりました。いらっしゃるかどうかはわからないけれど、いるかもしれないということですよね」
「えっ」

 望みなら、どんなに小さなものでも決して捨ててはいけない。
 捨てた瞬間に、希望はこの手に触れることすら叶わなくなってしまう。

 フィリーナは女性に頭を下げて駆け出す。
 辿り着いた門扉のかんぬきを外し、重い扉を押し開いた。

 目の前に架かる橋の向こうは、ここへ来たときと同じに人の気配がない。
 いくつあるのかわからない家を、一軒一軒当たってみるしかないのかとくじけそうになった心に、ふとディオンの言葉が過った。

 ――“前に物資を運んで来た時は、荷馬車が進めないほど物乞いの人でごった返していた”

 思い出し門の中へと引き返すと、食糧を積んだ荷車を一台、門兵の男性に引いてもらうようにお願いした。

 事態は一刻を争う。
 どうかお医者様がいらっしゃいますように、と強い思いを胸に、橋を駆けながら十字架を切った。
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