冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
*


 あれから数日ほどして、ディオンの身体の具合が落ち着いてきた頃に、ヴィエンツェ城の離れの塔から、先日、ようやくバルトの王宮へと帰ってきた。
 しばらくこの国を離れていて気づいたのは、バルト国に吹く風には、仄かに甘い薔薇の香りが乗せられているということだ。

 王宮の中を歩いていると、あちらこちらにディオンの香りが散らばっていて、まだ目覚めてはいないのに、すぐ近くを歩いていらっしゃるような気がして、はっとすることが何度かあった。

 颯爽と歩く姿をこの目に留められなくて切なくなるけれど、でもディオンはいなくなったわけではない。
 今は自身の身体をゆっくり少しずつ癒している最中なのだ。

 ――近いうちにまた、私を見つめて微笑んでくださるわ……

 溢れる想いで胸が詰まり、喉元が少し苦しくなった。


 王宮の外に出て、いつもの洗濯場で桶に水を汲み直す。
 もう何度、こうやってこの場所に来ては、ディオンの部屋へと行き来を繰り返しただろう。
 こんこんと湧く大きな石の囲いの水面にぼうっと自分の影を揺らしていると、後ろに迫る足音にぱっと振り返った。
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