冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
 しんと静まり返った広間には、自分の心臓の音だけがこだましているような錯覚に陥る。

 フィリーナはまるで自分を高い場所から見ているような気分で、金縁のあしらわれたカップを皿ごと移動させる。
 テーブルに向かうカップの中で、暗褐色が不気味に揺れた。
 全身が、心が、恐怖に震えて動けない。
 カップを手にしたままのフィリーナを、ディオンが見上げてきた。
 世の中のすべてを見極める漆黒の瞳が、フィリーナの心臓を鋭く突き刺した気がした。

 次の瞬間――……
 フィリーナの手は、カップの載った皿の重みに耐えられず、テーブルに置くことなく床に放ってしまった。

 振られるカップから湯気を立てた暗褐色の液体が飛び出る。
 絨毯の敷かれた床に、白の陶器は鈍い音でぶつかった。
 衝撃で取れた細い取っ手が、転がるカップに置き去りにされた。
 茶色く汚れたのは、高級な絨毯と、フィリーナの純真な心。

「どうした?」

 立ち上がりフィリーナに迫る圧倒的な存在感。
 ひりひりとした痛みを感じる手で、フィリーナは震える口元を覆った。
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