冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
 コーヒーにすら手を付ける様子のないグレイス。
 一度も碧い瞳と目を合わせることなく下がる。

 ――もう私とはお話しいただけないのかもしれない……

 薬草を塗り込めた手の甲がひりついた。

 ディオンが、機転を利かせてくれたおかげで、グレイスから見れば、偶然の事故が事を失敗した原因だということになっている。

 けれど、明らかな失敗の原因は、フィリーナ自身にある。
 やり遂げられなかった事実が、グレイスからの評価を下げているような気がして、心が落ち込んだ。
 喉の奥にぐっとつっかえるものを感じながら部屋を出ようとすると、

「フィリーナ」

いつの間にか真後ろに来ていたグレイスが、フィリーナの押すワゴンの持ち手を引き止めた。
 乗馬の時を思わせる背後の近さに、胸が飛び跳ねる。
 もう話しをすることはないと思っていたのに、嬉しくて顔が上気する。
 だけど、頬を染めるフィリーナの耳元で、グレイスは抑揚のない低い声で囁いてきた。

「兄はコーヒーくらいで騒ぐ人ではないよ。
 なのにどうしたんだろうね、カップを放ってしまうなんて。
 ……彼らしくない」
「……ッ……!」

 呼吸ができなくなるほどに息を飲んだ。
 また今までのように接してくれるんだと思った喜びは、一瞬で消え去る。
 ワゴンの取っ手を掴んだ綺麗な手に、血の筋が浮いているのが見えた。
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