冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
 冷えた心臓は震えだす。
 振り返ることができないまま、背後の気配はすっと遠ざかっていった。

 遠くでかちゃりと陶器の動く音が聴こえる。
お持ちしたコーヒーは飲んでいただけたようだけれど、安心を得ることはできなかった。

「いいよ、下がって」

 冷たく放られた言葉に、かろうじて一礼する。
 胸の息苦しさを抱えながら部屋を出て、廊下に立ち尽くした。

 早く給仕室に戻って、メリーの指示を仰がなければいけない。
 晩餐会に向けての準備は、もうすでに各所で始まっている。
 諸外国の王族、貴族が集まる晩餐会は、粗相のないよう徹底した準備が行われる。
 こんなところでぼうっとしている場合ではないのに、グレイスの低い声が頭と心に重く圧し掛かっていて動けない。

 ――グレイス様は、ディオン様がコーヒーを零されたとは、思っていらっしゃらない……?
 だったら――……

 その先を考えると目の前が真っ暗になる。
 震えだした足をなんとか一歩踏み出すと、それまで気がつかなかった気配に、はたと顔を上げた。
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