黒き魔物にくちづけを
「誰……?どこにいるの?」
咄嗟に振り返っても、通りには誰の姿も見当たらない。耳を澄ませてみても、返事は聞こえなかった。
首を傾げ、今度はキョロキョロと辺りを見渡す。と言っても、やっぱり何も無い所だから、隠れる場所は木の陰しか──。
「……あ」
見つけた。ちょうど、木の陰になっているところに、隠されたように置かれたリヤカーを。
森に足を踏み入れることに躊躇いはなかった。持っていた鞄をその場所に置いて、草の根を踏み分けてそちらへと向かった。
「……うそ」
その先、見えた光景に、私は唖然とした。
濡れた水色の瞳と、視線が合う──そう、リヤカーに乗せられていた【供物】は、人間だった。
教会の修道服のような形の真っ白な衣服に身を包み、手足を荷台から伸びた鎖に繋がれて、声を出させないためにか猿轡(さるぐつわ)をかませられた、美しい少女が。
「ちょっと……!どうしたのよ……!」
泣き声の主は彼女だろう。口を塞がれていたから、エレノアの呼びかけに返すことが出来なかったと言うわけか。
すぐさま駆け寄った彼女は、すぐに口を塞いでいた猿轡を外してやった。途端、喘ぐような涙声が、解放された口から漏れ出す。
「あっ、あっ……」
何かを言おうとした少女の声は、しかし明瞭な言葉にはならずにつかえてしまう。エレノアは手を伸ばして、彼女の背を撫ぜた。
「落ち着いて。ゆっくりでいいから」
宥めるようにそう言ってやると、少女は大人しく何度か呼吸をする。それから、涙の膜が張った瞳をまっすぐにこちらへ向けた。
「あっ、ありがとうございます……」
「いいえ。それより、何があったの?どうして、こんな……」
エレノアは彼女の自由を奪っている鎖を眺めやる。こんなの、ただごとではない。
「逃がさないようにする、ためです。……私は、生贄だから」
思案するエレノアの耳朶を、諦観の滲んだ少女の声が撫ぜた。