黒き魔物にくちづけを
すれ違う人々の会話を聞きながら、エレノアの頭にはどうしても、そんな【もしも】が浮かんでしまう。
けれど、その時のことだった。
「……森へ行ったらだめだって、何度も言っていたでしょう!?」
街の入口である門まで、あと少しというところ。突然辺りに響いた金切り声に、エレノアは驚いて振り向いた。
それは、母親と小さな息子のようだった。服に土汚れをつくった息子を、母親がヒステリックな声をあげて、息子を叱っている。
「森には【魔女】がいるのよ!?出かけて、もし襲われたらどうするの!?」
(……っ)
その言葉に、彼女はつい、足を止めた。
魔女、と女は言った。それは、子供に言い聞かせるための脅し文句のようではなく、女が本心からそう信じている響きを、孕んでいて。
『この街や都では、魔女が人々を呪って災いをもたらすのだと恐れられているそうです』
先程聞いたセレステの言葉が蘇る。……なるほど、どうやらそれは、本当らしい。
「魔女の他にも、他の生き物を襲う恐ろしい魔物も住んでいるって言うわ!森は危険なところなの、だからもう二度と行ってはいけません!」
母親は息子の両肩を掴み、声を激しく荒らげてそう言っている。
(……本当に、恐れているものは【魔女】なのね)
思わず足を止めてその様子を目で追っていた彼女は、ふと我に返って歩みを再開させた。
(人々は黒を恐れてはいない。けれどそれは、恐れるものが他のものであるという、ただそれだけ)
開いている門をくぐりながら、彼女は先ほどの光景を思い出し、そんなことを考えた。
(……だけど、それでも、私の目が気味悪がられない街があると考えると、不思議な気分になるわ。……別に、移り住みたいとは思わないけど)