黒き魔物にくちづけを
【もしも】、この街を次の生活の場に選んでいたら。先ほど浮かんだそんな問いかけは、所詮もしもの話でしかないから、意味がない。
少し前の彼女だったら、迷わずに選んで街に順応していったかもしれない。けれど今の彼女はもう、森に住んでいる魔物の嫁の、エレノアだ。
(……早く、帰りましょう)
自然と、そう思った。早く、早くあの屋敷へ帰ろう。そして、あのどこか憎めない魔物に、今日あったことを話そう。そんなことを考えて、道を歩く足取りをほんの少し早めた。
しばらくすると、行きに歩いたような辺りへ辿り着く。辺りに人気がないことを十分に確認して、エレノアは道から外れて森の中、ビルドとの待ち合わせ場所へ向かって足を踏み入れた。
待ち合わせ場所は確か、オークの木を三本過ぎた先の、大きなモミの木の根元だったはず。慣れた足取りですいすい進んみながら、エレノアは空に向かって呼びかける。
「ビルド、いる?待たせてごめんなさい、買い物は済んだわよ」
すると、彼女の声に答えるように、がさりと何かが動く音がする。カラスかと思って視線を上げた彼女の耳に、けれど予想外の声が届いた。
「エレノア、ここだ」
カラスのだみ声とは違う低い声と、明瞭な発音で紡がれる彼女の名前。その持ち主に心当たりは一つしかなかった。
まさか、と思いながら、上げていた視線を下げる。すると予想通り、そのまさか──留守番をしているはずの人が、エレノアの姿を見つけてこちらへ歩いてきていた。
「ラザレス……!どうしてここに?」
名前を呼んで訊ねると、彼はそれには答えずにぺたぺたとエレノアの顔を触り始めた。何事かとされるがままになっていると、ひとしきり確認を終えてほっと息をついている。
「良かった、無事だな」
「何事も無かったわよ。……もしかして、心配してわざわざ来てくれたの?」
触っていたのは、どうやら怪我をしていないか確認していたらしい。思わずそう訊ねると、彼は一瞬言葉につまったあと、ふいと視線を逸らしてしまった。
「……帰るぞ」
質問への答えはない。けれど少し揺れている瞳が如実に語っているようで、エレノアは少し笑った。
「ふふ、ありがとう。……帰りましょう」
本人が認めていなくても、お礼を言って頷いた。そして、獣の姿に変身した彼の背に、迷わずまたがったのだった。