黒き魔物にくちづけを
(……今日は大人しく寝ているのね)
本来ならそれは良いことであるはずなのに、なぜか残念に感じている自分に、彼女は気がついていた。
今、無性に、彼の部屋に行きたかったのだけど。
(……水でも飲んで、部屋に戻りましょう)
未練がましい思考を振り払うように、自室の扉をぱたりと音を立てて閉め、居間へと向かう。
水差しから一杯注いで口に含むと、きんと冷えた温度が乾いていた喉を通り抜けた。けれど同時に身体の内側にも冷えが浸透したようで、背筋がぶるりと震えた。
(冬だものね……。明日には雪でも降ってそう)
鳥肌がたってきた両腕をさすりながら、早く部屋へ戻ろうと踵を返した。その時、どこかでガチャリという音がする。
「え……?」
ぽかんと顔を上げると、廊下の奥の扉が、ちょうど開かれるところで。
その奥から姿を見せた銀の瞳が、驚いたようにまるく見開かれた。
「……エレノア?」
「ラザレス、どうしたの?どこか出かけるの?」
同じタイミングで起きてきたらしい男に、彼女は尋ねる。彼はまだちょっと呆けた顔で扉を閉め、こちらに歩いてきた。
「いや、出かけない。ただ起きただけだ」
「ふうん、私もよ。……水、飲む?」
来たばかりの頃、夜になると森へと出かけるラザレスの姿を見ていたから、てっきりまたそうするのかと思ったのだが、違ったらしい。エレノアの問いかけに、彼はこくりと頷いた。
先ほど自分が使ったグラスにもう一度水を注ぎ、ラザレスに手渡す。彼は短く礼を言って受け取った。
「……怪我した時、狼に森の見回りを代わりにやってくれるよう頼んだが、治ってからも手伝うと言って聞かなくてな。もちろん俺もやってはいるが、前のように真夜中まで帰らないようなことはなくなったんだ」
ラザレスは水を飲みながら、先ほどの疑問に答えてくれる。どうやら、前は一人でやっていた見回りを手分けして行うようになったらしい。どおりで、とエレノアは納得した。