黒き魔物にくちづけを
「でも、珍しいわね。あなた、普段うなされてても全然起きないのに」
暗い中で彼と会話をするのは初めてのことだ。ラザレスは黒いから、下手をすると見失ってしまいそうだなんて思いながら彼女は訊ねる。思い出すのは、いつも悪夢にうなされて激しく暴れている姿。あんなに激しくうなされているのに一度も起きたことがないのだから、こうして夜中に起き出す姿は意外だった。
「……今日は、目が覚めたんだ」
「ふうん?」
男は少々歯切れが悪そうに答える。もしかして彼もエレノアと一緒で、あまり良くない夢を見て目が覚めてしまったのだろうか。
話しているうちに、彼のグラスの中は空になった。立っているうちに足裏から冷たさが染み込んできて、エレノアは両腕をさすった。
「冷えるな。部屋へ戻った方がいい」
暗闇の中にも関わらず、彼女のその仕草に気付いて男は言う。やはり獣らしく、夜目が利くのだろうか。
「……そう、ね」
本当はもう少し話していたいくらいだったのだが、この気温じゃそうもいかないと彼女は頷いた。
彼が先に歩き始めたので、エレノアは後に続く。足音が一人分ではない、ということが新鮮だった。
「……あっ」
ぼうっと歩いていたせいか、彼女は自分の部屋を通り過ぎていたことに気付く。何をやっているんだ、と考えて、ふと『夜中に起きて自分の部屋へ戻る』というのが初めてなのだと気が付いた。
(……そうね、いつもラザレスの部屋へ向かっていたのだし)
いつもエレノアが目覚めると、屋敷の奥からうめき声が聞こえてくるのが常だった。今日はそうではないから、部屋へ行く必要は、ない。
(……必要は、無いのだものね)
「……こっちじゃなかったわ。うっかりしちゃった。おやす、」
『おやすみなさい』、と告げ、自分の部屋へと踵を返──そうとした、その時。ぐいと、腕を掴まれた。