黒き魔物にくちづけを
「……」
「……」
腕を掴んだのは、もちろん傍らにいたラザレスだ。『行くな』と言うように掴まれたそれに、彼女は驚いて振り向いた。
「……すまん、なんでもない」
間近で見た彼の瞳は、掴んだ本人であるはずなのに驚きに染まっていた。早口にそう言うと、彼はすぐに手を離してしまう。
そのまますたすたと、歩いていった彼は、まるで逃げるように自分の部屋に入る。バタン、と、扉が音をたてて閉じられた。
「…………」
一人取り残された彼女は、まだぽかんとした顔でそちらを見つめていた。何だったんだ、今のは。咄嗟のことに何の反応も出来なかったが、彼女は大いに混乱していた。
まるで引き止めるかのように掴まれた腕に触れる。──あの一瞬、彼は無意識のうちに引き止めようとしたのだと、解釈しても良いのだろうか。
(良い、かしら。……良いわよね)
彼女は自分に言い聞かせるように呟くと、自分の部屋ではなく奥へ──魔物の部屋へと、足を進めた。
(別に遠慮することないわよね、曲がりなりにも嫁なんだもの)
心の中でそう言い訳をしながら、扉の前に立つ。らしくなく、ほんの少し緊張した。
少し迷った末、ノックはしないことにして、ドアノブに手をかける。がちゃり、と、特に遠慮せずに押し開けた。
「……エレノア?」
ちょうどベッドの上に腰掛けていたラザレスは、扉を開けて入ってきた彼女の姿に目を丸くしている。それに怯むことなく彼の目の前まで足を進めると、エレノアはおもむろに口を開いた。
「……私の部屋、北向きなの」
唐突な話し出し。ラザレスは、面食らったように彼女を見つめた。
その視線と合わせるようにしっかりと見返して、彼女は続ける。
「……だから、寝てると寒いのよね。そこ、入ってもいいかしら」
「え」