黒き魔物にくちづけを

そう言う少女の表情は、社交辞令でも何でもなく嬉しそうだった。そのことにほっとしながら、エレノアは注文を口にした。

「ええ、また来ちゃった。消毒薬と傷用の塗り薬、貰えるかしら?」

「かしこまりました!」

セレステは大きく頷いて、品物を用意し始める。ちょうど他に客もいなかったので、彼女は梱包しているセレステの方へ近づくと、声を落として訊ねた。

「……ねえ、訊きたいことがあるんだけど、良いかしら」

「何でしょうか?私に答えられることなら何でも」

一瞬顔を上げた少女は快く頷いてくれる。エレノアは頼もしく思いながら、疑問を言葉にまとめた。

「……あのね、この前話してくれた、森に凶暴な魔物がいるっていう噂についてなんだけど。あれ、広まった時期とか、きっかけについては何か知ってる?」

「時期ときっかけ……ですか?」

セレステは手を休めずに、少し考える素振りをする。そして、少し間をあけてから話し出した。

「時期は、ここ最近だと夫が言っていました。水不足で米や野菜の値段が上がり始めた頃から、貧困にあえぐ人々の増加と共に急激に広まっていったそうです」

「ここ最近……そうなのね」

水不足からの物価の高騰、と言われて、エレノアが覚えたのは既視感だった。何処で聞いたのか、と考えて、もといた町で森へ生贄を捧げる事態を引き起こした原因だと気付く。生活が苦しくなってくると人々は理由付けをしだすということをエレノアはよく知っていたので、噂がそれと同時期に広まったものだということは信じ易かった。

「きっかけは……そうですね、元々、魔女が森に住んでいると信じられてはいたそうです。神話に魔女の記述があるんですけど、それが由来なのかもしれません。前にもお話しましたけれど、魔女というものは不吉をもたらすとされていて、これまでにも飢饉や天変地異で暮らしが安定しなくなった時に、それをもたらす魔女への恐れが増大したという例はあるようです。例えば、魔女と思わしき女を捕まえて処刑するとか」

処刑、という物騒な単語に、彼女は眉をひそめる。森に人柱を捧げることよりもよほど攻撃的で、過激なことなのではないだろうか。
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