黒き魔物にくちづけを
「魔物なんて存在しないと、思っているのですか?」
少女の問いかけに、今度はエレノアが首を横に振る。
「存在を信じていない訳では無いわ。だって私、この目で見たことがあるもの」
思い出すのは、十年前のあの日。炎が全てを包み込んだ、忘れられない日の光景。村人を助けることを阻んだ、三頭の狼。そして、炎を見守るように並んでいた狼と、少年。
あの日、狼に囲まれていた少年──が、変身した、鱗をもつ黒い獣。あれは確かに魔物であったと、彼女はそう信じている。
彼らは一体何者なのだろう。その疑問がずっと燻っているから、山を降りてからこれまで、彼女は町を移れどもこの地方から離れなかったのだ。
「見た……って、黒の森に住む、翼をもつ魔物を、でしょうか?」
少女は驚いた様子でエレノアに訊ねる。彼女はこれには、首を横に振った。
「いいえ。多分、この供物を捧げようとしている相手ではないわ。私の見た魔物は、鳥ではなくて獣だったから。──でももしかしたら、この森の魔物に会えば、同じ魔物だし、私の見た魔物のことも何か知っているかもしれないわね」
エレノアのゆるがない瞳を見た少女は、何かを感じ取ったように俯く。その指が、ぎゅっと握りしめられた。
「……本当に、生贄になるおつもりですか」
「ええ」
躊躇いなく頷いたエレノアを見て、少女は複雑な表情を浮かべて、目を伏せた。逃げていいことへの戸惑いと、エレノアへ役目を押し付ける罪悪感とがないまぜになっているのだろう。
「ところであなた、逃げて行くあてはあるの?」
迷うように俯いた少女に、エレノアは訊ねる。あてがないと言われたら今朝もらった給金と、供物として置かれている金目になりそうなものを持っていくように言うつもりだった。
けれど予想に反して、少女はこくりと頷いた。
「少し離れた街なんですが、知り合いがいるんです。とりあえず、その人のところへ行こうかと……」
少女がそう言った、その時のことだった。
「──セレステ!」
静かな木立を駆け抜ける、声。
それを聞いた途端、少女の表情がさっと変わった。
「ハウエルさん……!?」