黒き魔物にくちづけを
「…………え」
一瞬、何が起こったのかわからなくて。条件反射のように、間抜けな声をあげた。
それから、じわじわと思考が動きを取り戻してくる。言葉の意味をゆっくりと理解して、ぱちりと目を瞬かせて──そして、後悔した。
何故なら、視界から得られる情報が、あまりにも多かったから。
ラザレスの瞳がひどく優しくて、真摯で、愛おしげで。端的に告げられた言葉を補うように、雄弁に語っていて。
理解してしまえば、迷うことなんてなかった。
エレノアは、答えを言うべく息を吸う。答えなんて、きっとずっと前から決まっていた。
私もだ、と──言おうと、した。
──けれど、その時だった。それは、どこかの神様の、悪戯だったのだろうか。
一陣の風が、素早く大きく、吹き抜ける。火照った頬をさますような、冷たい風だった。
そして、同じ瞬間、雲が月を覆い隠したのだ。
ふっと、銀世界から光が消える。世界に黒い緞帳がおりる。
それはまるで、魔法が一瞬にして、消えてしまったようだった。
「……っ」
彼女が答えを言うよりも、早く。ラザレスが、彼女の身体を勢いよく引き剥がした。
喉の奥まで出かかっていた言葉が、奥へと引っ込んでいく。目を丸くするエレノアに、男の声が降ってきた。
「すまない。……忘れてくれ」
そう言うが否や、彼は勢いよく立ち上がった。今までの優しい動作が嘘のような、有無を言わせぬ動きだった。
「え……」
唐突過ぎる言葉に、エレノアは当然聞き返した。けれど彼女に返ってきたのは、さらに冷たくなった、凍えるような彼の声。
「俺がお前に言えるはずの言葉ではなかった。……忘れろ」
──凍えるような声で、彼はそう、言ったのだ。
「は……?ちょっとまって、」
『忘れろ』、だなんてあんまりな物言いで、納得なんて出来るはずがなかった。急いで立ち上がろうとした彼女に、けれどそれよりも早くラザレスが口を開いた。
「もう二度と言わない。……だから、忘れてくれ」
「……え」
後ろ姿だけでは、彼がどんな顔をしているのかわからなかった。ただその声は、まるで彼女が森に来た日のように頑ななものに感じられて。
わけがわからない彼女を置いて、彼が暗い雪道を歩き出す。じゃくじゃくと、二人で踊っていた跡が、無残に踏み潰される音が響いた。
「……ラザレス」
呼びかけても、彼の歩みは止まらなかった。その背中は全てを拒絶するように、たった一人で遠ざかっていく。エレノアは呆然として、追いかけることが出来なくて。
やがて遠くから、バタンと玄関が閉まる音がする。それを聞いても、エレノアはその場所を動けなかった。
『もう二度と言わない。……だから、忘れてくれ』
あの冷たい、頑なな言葉がこだまする。
「どうして……?」
取り残されたエレノアは、呆然と問いかける。優しかった銀世界は、けれど答えを返してはくれなかった。