黒き魔物にくちづけを
自分に弟がいたことなんて、エレノアは知らない。けれど、あの男の子を見た時に襲われる、泣きたくなるほどの懐かしさ。あれは、自分の血を分けた半身に対して、心が反応していたみたいで。
夢の中で、彼女は弟の名前を呼んでいた。それは、確か。
「ロシュ……」
どうにか記憶を掬いあげて、夢と同じように呼んでみた途端のことだ。
激しい痛みが、彼女を襲った。
「くうっ……!」
耐え難いほどの痛みに、彼女は頭をおさえて身体を丸める。しばらく呼吸をしていると、まるで内側から刃物で切りつけられるような激しい痛みは収まった。
それでも、何か考えようとすると、それを阻もうとするが如く痛んだ。忘れているものを思い出すことを、身体が拒んでいるようだと思った。
それでも──過去に何があったのか知りたい、と、今のエレノアは思っていた。
その理由が、彼女の過去を知っているのであろう、今の同居人の存在だ。
『もう二度と言わない。……だから、忘れてくれ』
あの、雪の日から数日がたった。あれ以来、ラザレスの顔をまともに見ていない日々が続いている。
彼が屋敷から出ていったとか、そういうことではない。ただ──避けられているのだ。
例えば今だって。以前、夜中に目を覚ましたエレノアが行く所は、彼の寝室だった。それをしないのは何故か──理由は、彼があの部屋にいないから。
あの日の夜から、ラザレスは狼と手分けするようになったはずの、夜通しでの森の見回りを再開するようになった。もちろん、カゲの様子がおかしいからということもあったのかもしれない。それでも、彼の避け方はあからさますぎた。
『俺がお前に言えるはずの言葉ではなかった』
ラザレスはああも言っていた。『言えるはずの言葉』、などと、まるで自分にはその資格がないというような物言いは、彼が何かに──過去のことに、責任を感じているように思えてならない。