黒き魔物にくちづけを
このまま彼は眠り、しばらくは部屋から出てこない。うなされている様子はなかったが、しっかり休んでいるという確証も得られてはいなかった。もしかしたら休息になりきらないような、ごく浅い微睡を繰り返しているだけなのかもしれないと、彼女は思っている。それを肯定するように、彼の目の下にはクマのようなものが復活してきていたから。
それでも。扉を開けて、中の様子を窺うことはしなかった──出来なかった。
その勇気が、無かったのだ。いくらエレノアとはいえ、あんなにもあからさまに避けられていては、それ以上追いかけることは出来る気がしなかった。あんな風に視線を逸らされるとわかっていて、しつこく押せはしなかった。
奥の部屋に聞こえない程度に小さくため息をついたエレノアは、一度部屋に戻って外套をとってからその場を後にする。台所を、居間を通り過ぎて、向かったのは玄関だった。
(森に、行こう)
今、屋敷には彼がいるから。せめて少しでも休めるように、彼が気に病む存在は、近くにいない方が良いのだろう、と。……これも、雪が降った日から数日間、もはや恒例になっているパターンだった。
何となく沈んだ気持ちのまま靴をひっかけて、エレノアは扉を開けて外へと出たのだった。
数日間降り続いた雪は、ようやくやんだらしい。森はすっかり真白に染まっていて、歩くのはそれほど容易でなかった。
歩いていると、どこからともなく黒い影が現れる。毛むくじゃらなそれはエレノアに歩み寄ると、すり、と鼻先を寄せた。
「おはよう、グラウ。ついてきてくれるの?」
狼の毛並みを撫でながらそう声をかけると、言葉は通じてないだろうけれど「ウー」という唸り声を返してくれた。