黒き魔物にくちづけを
つ、と左目の横をどろりとしたものが流れ落ちる。ぱたりと服に赤いものがついて、それが血だと気がついた。こめかみに石が当たった時に、切れてしまったのだろう。
その熱いような温いような感覚に気を取られた瞬間、彼女を追う何人もの男が、腰にさげた袋から取り出した石を一斉に構えた。いくつもの目に射抜かれて、一瞬、逃げるという思考が飛ぶ。
「投げろ!」
男のあげる怒号。同時に大量の石が、彼女めがけて、放たれた。
「──っ!」
黒いいくつもの塊が、自分に向かって飛んでくるさまが、やけにゆっくりに感じられた。ああ、もうだめかもしれない、だなんて、そんなことを思いながら、両手で頭を庇うように覆った。
その刹那──何かに、勢いよく引き倒された。
「……っ!」
雪に倒れ込んだ、と冷たくも柔らかい感触から悟った瞬間、石が何かにぶつかる音が聞こえた。けれど来ると思っていた衝撃は──無かった。
「え……」
恐る恐る、瞑っていた目を開く。──そこには、黒くて大きな影が、そびえ立っていた。
「あれは……!」
男の一人が、突然現れた大きすぎる獣を指さして、そう叫んだのが聞こえた。
隣にいたグラウが、助けてくれたのかと思った。けれど違う。あの狼は、こんなに濃い黒色をしていないし、こんなに大きくもない。
「ラザ、レス……?」
半信半疑のまま、心に浮かんだ人の名を、呼んだ。
その声に誘われるように、降り注ぐ石を彼女の代わりに全て受け止めた獣はゆっくりとこちらを振り向いた。月の光を閉じ込めたような銀の瞳が、一瞬、確かにエレノアだけを映す。久々に相対したその人の瞳に、胸の奥がざわりとどよめいた。