黒き魔物にくちづけを
屋敷に戻ると、人の姿に戻ったラザレスはエレノアを抱えたまま玄関をくぐった。下ろせと言っても聞かぬ様子で、ずんずんと廊下を進んでいく。
ようやく下ろしてくれたのは居間のソファの上で、彼女を座らせたラザレスはそのまま床に膝をつき、彼女を正面から見つめた。ようやく彼の顔を見られたエレノアは、そこに浮かぶ表情に、思わず少し怯んだ。
彼は、ひどく険しい顔をしていた。苛立ちを隠せていない様子だった。強い憤りを内に溜め込んで、けれど溜め込みきれずに溢れ出させているような──とにかく、怒りと苦しみとを、まぜこぜにしたような顔をしていたのだ。
(外にいたこと、怒っているのかしら……?)
そんな表情を前にして、思考はどうしたって後ろ向きなものになってしまう。それもそのはずだった。これまでずっと避けられていて顔を見ることすらままならなくて、久々に見た彼の顔が、こんなものだったのだから。
ともかく、エレノアは彼がここまで苛立った表情を見ること自体が初めてだった。しかも彼は、その目を逸らすことなく彼女へと注いでいるのだ。
思わず何も言えなくなってしまった彼女は、息をとめて彼が何か言うのを待った。
やがて、ゆっくりと彼の唇が動く。
「……血が」
ぽつり、男が呟く。その声は、瞳とは対照的にひどく頼りない響きをもっていた。
血?と言葉を反芻したエレノアは、ふと、彼が見つめている一点がどこなのかに思い至った。彼が凝視しているのはエレノアの額──それも、左のこめかみの辺りだ、と。
そこは、先ほど人間に投げられた石で、ざっくりと切れていたところだった。それどころではなくて忘れていたのだが、確か血が流れていたはず。
ふと頬に手をやったエレノアは、そこから伝わるべっとりとした感触に驚いた。視線をやると、自分の左手は赤黒く染まっていて、それらは当然ながら全てこめかみから流れたものだ。自分がそれほどひどい有様だったのだと、まざまざと見せつけられた。