黒き魔物にくちづけを
【壊した】とはどういうことかと、彼女は敢えて訊ねなかった。今なら聞いたら答えてくれるかもしれないけれど、それを彼は望んでいないことを、彼女はなんとなく悟っていたから。
過去に何があったのか知りたいという思いはもちろんある。けれどそれは、今ラザレスを苦しめているものについて知りたいからだ。現在の彼のことが、彼女にとって一番重要だったから。
はじめは、何ももたない自分の起源について知りたかった。その起源を知ることを、生きる理由として選んだ。けれどいつの間にか、それは二の次となっていたらしい。
「……エレノア」
ラザレスは、様々な感情を瞳に浮かべて彼女を映していた。肯定したいけれど迷っている──そんな風にも見えた。
彼女は瞳を逸らさずに、じっと彼を見つめた。自分の意見は変えるつもりはないと、訴えるように。
そして──ふっと、彼の瞳から迷いが消えた。
「……ああ」
ラザレスが、ゆっくりと頷く。それはきっと、先ほどの問いかけに対する返事だ。
「ここにいて、良い。……ここにいて欲しい」
「……!」
彼女は、思わず息を呑んだ。承諾だけでなく、同じように願いで返されるとは、思っていなかったから。
『ここにいて欲しい』──、その言葉に、あの雪の晩以降で初めて、彼の本心が見えた気がした。
「ラザレス」
思わず、名前を呼んだ瞬間。彼女の体はぐいと引き寄せられていた。
「……エレノア」
耳元で響く声、背中にまわる腕と、彼女のものよりも少し高い、よく知った温もり。──そこは久しぶりに受け入れてくれた、優しい腕の中で。
やはり『ここ』にいたい、と彼女は思った。自分の居場所があると、初めて彼女は心の底から思ったのだった。
(……もしかしたら、)
身をゆだねて目を閉じながら、彼女はふと、考える。思い出すのは、いつかのセレステとの会話だ。
『幸せ……そうに、見える?』
自分が幸せそうに見えると言った彼女に、エレノアはそう問うたのだ。あの時は、その感情がどのようなものか、本当のところ彼女はよくわかっていなかったのだけど。
(……【幸せ】って、こういうことなのかもしれないわね)
胸の奥に少しずつ芽生えている、温かいような柔らかいような感覚は、やはりまだ慣れない。けれど決して嫌なものではなくて──。その感覚に名前をつけながら、彼女はそんなことを考えたのだった。