黒き魔物にくちづけを

なに、と声をあげかけた彼女は、はっと口を噤む。今の彼の纏う雰囲気は、非常に張り詰めた、何かを警戒しているそれだったからだ。

「……何か来る」

エレノアを庇うように側に寄せて、彼は油断なく辺りを見回していた。エレノアもそれにならって、息を潜めるようにして辺りの様子を窺う。

そして──彼女の耳は、とらえた。何かが雪の上を駆ける足音と、それに紛れるように響く、誰かの話し声を。

(人間……?でも、それにしてはいつもと様子が違う……?)

エレノアには魔物や狼ほどの聴力はないから、聞こえてくる物音から人数や距離を測ることは出来なかった。が、それでも今聞こえてくる音はこれまでのものと違うような感じがした。

(まさか装備を変えてきた、とか……!?)

向こうだって何度も何度も同じやり方で来るとは思えなかった。まさか、都の軍を呼んだのでは……と、悪い想像が頭をよぎった瞬間だ。

屋敷を囲む森の中から何かが飛び出してくるのが、視界の端に映った。

「……!」

何よりも早く動いたのは、やはりラザレスだった。彼は向こうを睨み据えたまま、片腕で素早くエレノアを背後に入れる。そのまま変身をしようとして──けれど、それは間に合わなかった。咄嗟にエレノアを隠すことを優先させてしまったからだろうか。

彼女の位置からは、魔物の後頭部しか見えなくなっていた。そのため詳しい様子は窺えなかったが、何かが突然立ち止まるようなざっという音だけは聞こえた。

空気がぴりぴりと肌を刺す。誰かがいるのだと、見えなくても伝わった。

「……こんな所まで、何の用だ」

普段よりも何トーンも低くなったラザレスの声が、しんとした雪原に響く。少し身をかがめた彼の姿勢は、いつ向こうが攻撃してくるかわからないという警戒感を如実に表していた。
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